40年目の三笠艦:学生と記念艦三笠を訪れる

ゼミ合宿のかわりの日帰り旅行で、学生たちと横須賀の「記念艦三笠」を訪れた。ゼミではR.ベネディクト『菊と刀』を読んでいるので、近代日本の1つの象徴を見るという意味での見学だ。私自身にとっては40年目、3度目の訪問である。

最初は小学4年生の夏、東京の親戚と三浦海岸に海水浴に行く途中立ち寄った。その前の前の年に「宇宙戦艦ヤマト」が放映されていて、父は裏の「アルプスの少女ハイジ」がお気に入りだったのでほとんど見られなかったのが、かえって火をつけてしまい、終映後セッセとプラモデルを集め(安い駆逐艦ばかり・・・)、戦記物を読みあさるようになった。日本海海戦については『坂の上の雲』ではなく、吉村昭『海の史劇』(『陸奥爆沈』から続いて)とN.プリボイ『バルチック艦隊の壊滅』(原題は『ツシマ』)がお気に入りで、とくに後者は何度も読み返した。だから最初の訪問は夢のような気持ちで、帰ってから手づくりの三笠艦を夏休みの自由工作にした。もちろん展示されたそれは、他の子どもらしい作品から浮きまくっていた。

二度目は20年前の新婚当初、例の食いしん坊の師匠が道楽で中古のロンドンタクシーを買ったので、2人で押しかけてドライブしてもらった。小雨の降る日で、帰りに横浜の、まだ周冨輝が帳場に立っていた「生香園」で食事をしたのを覚えている。

そして三度目、私はあいかわらず深い感動に捉えられつつ歩き回ったのだが、学生たちは皆今ひとつピンとこない様子で、それはそれで好ましかった。こんなところで興奮する方がヘン、あるいは危険である。咸臨丸から約半世紀、あいかわらず借金まみれの輸入品ではあっても、これだけの巨大な機械、そしてその群(艦隊)を「手作業で」操るようになった私たちの先祖。そのムチャぶりの象徴が、何を考えているのか分からない小男、東郷平八郎だ。凱旋記念写真のなかでふんぞり返る大臣ゴンベエの横にぼんやり座っているこの男が、多くの兵を犠牲にすること必至のムチャな判断を下したのだ。私はこの何から何までムチャな世界を愛しているのだが、そのムチャさゆえに、学生たちがピンとこないのも当然である。

軍港めぐりの方は、ロナルド・レーガンは作戦中でおらず、穴の開いた2隻のイージス艦マケインとフィッツジェラルドが仲良く並んでドックに入院中。ソマリアで海賊対策に従事した護衛艦隊やら、木造からプラスチック製に代わった掃海艇やら、スネ夫が自慢するプラモデルのような「いずも」やら、学生たちにはこうした現在の方が勉強になったようである。

帰りにどぶ板通りでダブルR(ロナルド・レーガン)バーガーというのを食べたら、普通のハンバーガーの4個分くらいあって、50歳過ぎの胃には拷問だった。

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複製芸術のアウラ:1枚の復刻版CDを考証する

大学2年の時、W.ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」(1936年)を読むゼミが開かれたので、クラスメートの数土直紀君(現学習院大学教授)と一緒に参加した。数土君は大学入学以来ずっと同じクラス、学科、研究科で学んだ、長い学友である。そのゼミは、たぶん表象文化という看板の大学院が新設されるので、その学生募集のためのものだったのだろう。

これまたなぜそうなったか、ここでも最初の報告を割り当てられた。あまりパッとしなかったようで、教官の反応は冷淡なものだった。数土君のときは激賞され、ちょっとやっかんだことを覚えている。パッとしなかったのはピンとこなかったからで、複製以外の芸術を知らない人間(ベンヤミンの時代だって多かっただろうに)にこんなこと言われても・・・という不快感からだった。それ以来ベンヤミンは苦手、で通している。都市社会学者としては失格かもしれない。

しかし当時の芸術は、ベンヤミンが断じたよりずっと複雑で微妙なものだったのではないか。そう思ったのは、今日1枚の復刻版CDを聴いていたときである。そのCDにはベートーベンのピアノ協奏曲第3番と第5番が収録されていて、どちらもピアノは私の一番好きなピアニストM.ロン、オーケストラはパリ音楽院オーケストラ、指揮は3番がF.ワインガルトナー、5番がC.ミュンシュだ。聴いていてハッとしたのは録音日で、3番は1939年7月、5番が1944年7月だという。後で調べると、3番は独仏休戦協定の1ヶ月後、5番はパリ解放の1ヶ月前、ナチ支配下のパリの始まりと終わりにあたる。ロンはいつもの硬いタッチで弾ききっているが、合わせるワインガルトナーもミュンシュも複雑な気持ちだったに違いない。なぜならワインガルトナーはユダヤ人でアンシュルスのウィーンから逃れてきたばかり、ミュンシュはアルザス出身の元ドイツ人、でも反ナチだったから。しかし、どちらの演奏にもそうした指揮者の心の揺れを聞き取ることは、少なくとも私にはできなかった。

これがナチのチェコ侵攻前、1937年にプラハで録音されたP.カザルスの弾くドボルザークのチェロ協奏曲となると、G.セルが指揮するチェコ・フィルははひたすら懐古的なすすり泣きに聞こえる一方で、カザルスは彼らを励ますように、力強く未来の希望を語っているように聞こえるのである。

だからむしろ、2つのピアノ協奏曲の「複製芸術」は、極限的な社会状況のなかでさえ、芸術活動が、それに支配されることなく自らの価値を輝かせる瞬間を、後世に複製して伝えているといえるのではないか。

「複製技術時代の芸術」は、技術と社会の変化に囚われすぎていて、人間が芸術を立ち上げる場のアウラ(その場限りの極限的輝き)を捉え損なっている。複製技術はアウラを奪うのではなく、アウラを保存し、時代を超えて交響させるのである。その可能性こそは、結局はベンヤミンの命を奪ったような暴力から私たちを救うに違いない。

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市井の職人に出合うよろこび:「中央フラワー」の花職人

新婚の頃から指導していただいている、野口整体の指導者が国立にいらっしゃって、子どもたちと一緒に毎年2回、親類を訪ねるように訪ねるのがわが家の慣例だ。子どもが小さい頃は泊まりがけで黄色いシエンタを走らせたが、子どもたちが大きくなったこの数年は新幹線で日帰りだ。行きがけには必ず「中央フラワー国立南口ガーデン店」に寄って、花を買う。それは、花束を作ってくれる職人の手さばきに惚れてのことなのだ。

花の種類も2つくらい、2千円くらいの小さな花束を、実にていねいに、手際よくまとめてくれる。その手さばきの落ち着いた感じが非常に好ましい。人あたりも濃くなく薄くなく、できあがると年2回しか来ない客に(よほど変わった客なのか?・・・笑)、外交辞令でなく「いつもありがとうございます」と言ってくれる。ちゃんと客をつかんでいる証拠だ。また花束ができる間、それぞれに育て方、楽しみ方が添えられた、店内の変わった花や木を眺めるのも楽しい。

最近早稲田界隈の小さなフランス料理屋でランチを食べたら、とても美味しくて、たぶん「旨かった」という顔をしていたのだろう。レジの向こうでシェフが「どうだ、旨かっただろう」という顔で笑っていた。こういう職人も好きだが(自分自身はこのタイプ)、「中央フラワー」の花職人のような、さりげない感じ、いやもっとはっきり言うと「けっして誇らない感じ」はいっそう好ましい(わが師匠のタイプ)。いったい花屋にはこのタイプの職人が多いので、花を買うのはいつも楽しい。パン屋やクリーニング屋にもこのタイプの職人は少なくない。そしてそうした職人たちの巨大な集積体が都市東京なのだ。

いい魚が入ると、それを飽かず見つめる幼稚園帰りの私(サカナくん?)に「お母ちゃんにいうて、買うてもらい」と笑顔で怒鳴った隣の魚屋の大将。商店街のなかで育った私は、品物以上にその品物を作り、売る人びとの心と体が気になって仕方がない。よい職人に出合うと、心の栄養をもらったような気がするのだ。

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きっとこの日が来ると思っていた:杉原邦生演出『夏の夜の夢』を見る

名古屋から家族で上京し、池袋あうるすぽっとで杉原邦生演出のシェイクスピア『夏の夜の夢』を観劇した。いつか、きっとこの日が来ると思っていた。

新婚の頃は仕事がややこしい割に実入りは少なく、連れ合いが就職したがともに薄給、加えて自腹で行き来する「愛は遠く離れて」(ベック夫妻)生活がはじまり、子どもが生まれたので制度の上限まで非常勤を掛け持ち、やっと給料のいい大手私大に転職できたが遠距離通勤は変わらず、その上社会人相手なので土日出勤が多くて・・・。だんだん観劇とか音楽鑑賞とか絶対無理と思うようになっていった。自宅でケーキを焼いたり、地元の山に栗拾いに行ったり、できる楽しみを見つけてきたが、観劇や音楽鑑賞を、今度は家族で楽しめる日が来ることをずっと夢見ていた。

この舞台で恋人たちを隔てる「壁」(本来の役名はスナウト)を熱演している海老根理君は、今の職場に移って最初のゼミ生である。今も昔も私のゼミは不人気で、テレビ論とか広告論とか、他の人気ゼミに入れなかった学生が流れてくる。海老根君もその一人だったろう。そんな彼らに、私はベラーの『心の習慣』とかハバーマスの『公共性の構造転換』といった、辛気くさい読書を押しつけていた。卒業するとき、海老根君は役者になるために、老舗劇団の研修生を受験すると言ってきた。老舗なら試験勉強の役に立つかもと、私はスタニスラフスキイの『俳優修業』を貸した。役には立たなかっただろうが、彼はみごとに合格し、『俳優修業』を返しに来た。私は、舞台に立ったらぜひ声をかけてくれ、見に行くから、と言って送り出した。社会学部だけれど、私が教師として彼にしたことは、『俳優修業』を貸したことだけだ。

病気がよくなってから、Facebookで海老根君が「ガレキの太鼓」という劇団で活躍をしていることを知り、友だち申請をしてみた。海老根君は覚えていてくれ、今回の舞台を知らせてくれたのである。2時間半、シェイクスピアをよく練り直した脚本・演出と、シェイクスピアの空間をそれぞれの身体で演じきる俳優たちを家族皆で楽しんだ。終演後ロビーに顔を見せてくれた海老根君に、私は「きっとこの日が来ると思っていた」と言った。私はほんとうに幸せな教師である。

「きっと来るのこの日」なのは、私たちの家族にとってもそうだ。子どもたちが大きくなり、大人4人でこうして観劇できる。秋には演奏会にも行こう。でも、親たちがかつてそうであったように、子どもたちはすぐに巣立ってしまう。シェイクスピア流に言うなら、「終わりは始まり、始まりは終わり」。

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君子の交わりは・・・:旧友と京都で再会する

中学高校時代の友人とおそらく20年ぶりくらいで再会した。20年というのは、前に会ったのはまだできたばかりの京都駅ビルで、その駅ビルが20周年というのだから。

今の彼は龍谷大学で真宗学の先生をしているが、中高時代は硬式庭球部の仲間、大学は一緒に東大文学部に進学し、彼は美術史学科、私は社会学科を卒業した。それから30年、互いに父となってその子どもたちは自立しつつあり、自らの父は喪って、仕事も円熟期というよりは着陸態勢といった感じになりつつある。そのうち会おうと言ってもなかなか機会がないので、思い切ってこちらから京都まで押しかけた。駅前の豆腐料理店で昼飯を食べ、その後カフェでコーヒーと、計3時間ほど、積もる話に花が咲いた。

といっても、一通りこの間の身の上話を披露し合った後は、もっぱら勉強の話なのである。君子の交わりは、私たちの場合、勉強なのである。若い頃には、偉い坊さんになったら祇園で「顔で」豪遊させてくれ、などと冗談を言っていたものだが・・・、やはり双方そういう柄じゃない。とくに彼の最近の研究の話が興味深く、もう少し帰りの新幹線を遅くしておくべきだったと思うくらいだった。

私の理解する限りでのその話の要点は、日本の仏教界にも、江戸時代には、カトリックの「普遍論争」に匹敵するような教派を超えた教義上の論争があったが、それは明治以降の仏教界の近代化(単線的歴史観の押しつけ)のなかで見失われていた、というものである。社会学者としては、そうした論争の場すなわち公共圏の成立と構造がより面白い。丸山眞男的思想史では決して捉えられない広がりと深みがそこにはある。山深い寺まで議論をふっかけに行くお坊さんたち、街場の本屋で新刊の論争アンチョコを買い求める商人たち、付け焼き刃で勉強して政治的に介入してくる寺社奉行(たぶん小身の秀才の婿養子)。しかし私にとって一番面白かったのは、そうした論争の基底を作ったのは、誰よりも思弁的で論争的だった教祖親鸞であることだった。この個性的なカリスマについて、もう少し深く勉強したい。

京都駅に戻ると、前から一度食べたいと思っていた、「笹屋伊織」の『どら焼き』を売っていたので、迷わず買った。『どら焼き』にしても、「亀屋陸奥」の『松風』(小学校時代の塾の先生=作家の故鷹羽十九哉が京都みやげはこれ、と言っていた)、「いづう」の鯖寿司にしても、今では何でも新幹線の土産物屋で買える。たいへんいいことだと思う。

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「建武の新政」と「建武の中興」はどこがちがうか:歴史社会学批判、その4

中学高校時代の日本史の先生は、もう中1のときから(よく知られている通り、わが母校では中高6年間担任は持ち上がり)お爺ちゃんな感じで、授業も退屈だったから、よくちょっかいを出して、廊下やら教卓やら(黒板に向かって)に立たされた(今どき、立たせる先生なんていないだろう)。

あるとき、先生は私に「『建武の新政』と『建武の中興』はどこがちがうか、言うてみい」と尋ねられた。私は「そんなん、同じやろ」と思って「分かりません」と答えた。すると先生は、「『中興』というと『新政』に比べて新鮮味がない」と真顔で仰った。子供心にもあまり出来のいい冗談と思えなかったので、私はあからさまに「えー、つまらん」という顔をしたと思う。しかし、今日までこのことを忘れたことはない。なぜだろう。

今になって、先生は歴史は事実の問題ではなく史観の問題なのだ、それも同時代から論争は始まり、何度もひっくり返される、それはつねに政治なのだ、ということを教えてくださったのだと思う。さらに、だからどうせ政治なのだと割り切るのではなく、政治の向こうの事実にたどり着くために、不断の勉強が必要なのだと教えてくださったのだと思う。

今朝の朝日新聞朝刊を見ると、最近母校の歴史教育に政治的外圧がかかっていることが記事になっている。前便「歴史社会学批判、その3」でも少し触れたように、少し前から伝え聞いていたことではあったが、あらためて今の母校の先生方のご苦労に同情を禁じ得ない。歴史だけではなく、あらゆる勉強は事実から遠ざかるためにではなく、事実に到達するためにあるはずだ。その事実が自分の卑劣さに立ち向かうものであるなら、なおさらだ。理想はどうであれ、多くの政治は卑劣さの上塗りとつるみ合いなので、勉強はつねに政治から疎まれる。だからこそ、政治より先に、私たちは勉強の勘どころを身につけておく必要がある。

在学中も全くよい生徒ではなかったし、今もよい卒業生ではない。もし男の子がいて勉強ができても、たぶん進学させようとは思わなかっただろう。でも、今回の事件を通して、私は母校を誇らしく思った。

 

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「かわいい」ものの自由研究:奈良美智展を見る

夏休みの自由研究として、豊田市美術館へ奈良美智展を家族で見に行った。予想よりは混んでいて、駐車場に整理員が出ていた。夏休み中とはいえ平日なので、家族連れの若いお父さん以外の男性客はほとんどいない。中京圏らしく、むしろおじいちゃん、おばあちゃん、お母ちゃんと孫たちという組み合わせが多い(三ちゃんレジャー?)。

私は音楽といわず、演劇といわず、現代と名のつくものが好きなので、奈良美智もまとめてみたいと思っていた。総回顧といったボリュームではなかったが、この作家に対する私の感じみたいなものは確かめられたように思う。

私から見ると、彼が描く「かわいい」(お母ちゃんたちの多くは、やや「義務的に」そうつぶやいていた)少女たちは、彼のなかに彼自身の一部なのであって、同じように性的な雰囲気をまとっていても、そのへんがドガの踊り子とは真逆のように思われた。私はドガの踊り子には共感できるが(性的嗜好の向きは違っても)、奈良の少女像には共感できないし、「かわいい」とも思わない。だって大の男の自画像に(それが筋肉ムキムキでも)かわいいとはいえないでしょう。

ちょっと残念だったのは、構図も彩色もかなり凝って描いたはずの大判の少女像を、時間をかけて見ている人がほどんどいなかったことだ。観客の多くは3ヶ所のインスタレーションに集中し、小部屋に入るところでは整理券が配られていて30分待ち。六本木の草間彌生展の小部屋でも待たずに入れたのに!。もちろん私たちは通過。というより、このインスタレーションは、前に同じ美術館で開かれた森村泰昌展のそれと似ていて、体育館のような展示室自体の構造上仕方ないのかもしれないが、ちょっと鼻白んだからだ。インスタレーションは、この作家の不得手分野かもしれない。

一番印象に残ったのは、常設の所蔵品室(クリムトとか熊谷守一とかあります)が移転させられていて、かわりに奈良グッズ専用のショップになっていたことだ。もちろんここも大盛況。村上隆でもヤノベケンジでも、この世代のアートとは「かわいい」グッズを「売る」ことなのだと痛感させられた。東山魁夷とか梅原龍三郎とか、銀座の画廊で売り買いされる前の世代とも(その最後は千住博の滝の絵だろう、私は知り合いに、その大判の絵を「高いんだよ」と自慢されたことがある)、あるいは佐藤忠良や舟越保武のように、日本中の公共建築物の前に同じ女性の半裸像を並べるのでも(名城公園の片隅には「かわいい」オリエさんの像がある)、さらにダンボールハウスに絵を描いたり、自分の性器の立体コピーを配布する次の世代とも異なる。「かわいい」ものを「売る」、しかし、それはもう過ぎ去りゆく流行なのかもしれない。

その日の夜、NHKBSをつけると、D.ブルーナの回顧番組をやっていた。世界一売れたかもしれない「かわいい」うさこちゃん。私が子どもに買った最初の絵本も「うさこちゃんとどうぶつえん」だった。ブルーナが健全で、奈良がインモラルだとは思わない。でもたぶん多くの人にとって同じように「かわいい」とカテゴライズされる2つの意匠の、「さまざまな」とは片付けられない隔たりに、私は考え込んでしまい、今も考え込んでいる。

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「小さい」社会学について考える:「大きい」社会学と「小さい」社会学、その2

前便に続いて「小さい」社会学について考えてみたい。「大きい」「小さい」などと感覚的な言葉で言い換える必要などなく、マクロ社会学、ミクロ社会学でいいのではないか、という異論が考えられる。が、さて、この言い方最近あまり聞かなくなったような。私が学生だった四半世紀前にはミクロ・マクロ・リンクといった課題設定が盛んだった。今省みると、これは経済学のミクロ、マクロ二分法の流用に過ぎず、十分練られた概念設定ではなかったように思われる。結果、廃れてしまったのではないか。

ただ、かつてミクロ社会学と呼ばれた研究群、とりわけA.シュッツに始まるとされる現象学的社会学については、もう一回勉強し直したい気がする。それもシュッツから後ではなくて、シュッツから前を。1899年生まれのシュッツは1859年生まれのE.フッサールからなぜ、何を学んだのだろう。同じフッサールから学んだ、1906年生まれのE.レヴィナスとはなぜ、あんなにちがうのだろう。レヴィナスは、フッサールと同い年のH.ベルクソンに関心はなかったのだろうか。ベルクソンは1つ年上で、同じノルマリアンのデュルケムの『宗教生活の原初形態』のどこが気に入らなくて、『宗教と道徳の二源泉』を書いたのだろう。コレージュ教授のベルクソンは、ソルボンヌ教授のデュルケムのことをどう思っていたのだろう。あれ、だんだん「大きい」「小さい」の話から逸れてしまった。

話を戻して、私が「小さい」という言葉で探究したいのは、対象とする範囲が相対的に小さいことと、それを等身大の目線で捉え、等身大の理解力で分析するということである。それはシュッツがウェーバーの方法としての理解社会学から、理論として引き出したアイデアに近いのではないかと思っている。歴史家C.ギンスブルクの「ミクロ・ヒストリア」と通じるかもしれないが、実はギンスブルクより半世紀も前にわが服部之総は「微視の史学」という小論を世に送っていて、その意味はここでの私の主張の源の1つである。服部は「微視の」という言葉を、彼が「石女(うまずめ:昔の差別表現)」と見限った社会学から借用したのだと思う。

前便で取り上げた、湯沢雍彦は「大きい」社会学の上から目線なところ、説教臭いところを嫌って「小さい」オルタナティヴを掲げているが、この「小ささ」も1つの主張であることに変わりはない。当然「離見の見」といった、(1908年生まれの)レヴィ=ストロース的批判の余地がある。ただし私は「離見の見」も「小ささ」と両立し得るのではないかと思っていて、そこが「小さい」社会学の核心ではないかと考えているのである。

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「大きい」社会学と「小さい」社会学:歴史社会学批判その3

昔話の「雀のお宿」は、よいお爺さんは舌切り雀から「小さい」つづらをもらい、中身の宝で豊かになるが、悪いお婆さんは「大きい」つづらをむりやり奪い取ったものの、中身はお化けでビックリという話である。さて、先便で歴史社会学を連続して批判してから、ときどき社会学の「大きい」「小さい」について考えている。結論は昔話と同じで、やはり「小さい」社会学の方が宝が詰まっている可能性が高いと思う。

デュルケムの『社会分業論』(今さら『社会的な労働の分割』とか『労働を配分する社会』とは訳せないかな。それならいっそ『宗教生活の原初形態』を『原始宗教論』に改題すれば3部作が「論」で揃うのに・・・)やウェーバーの『プロ倫』は、明らかに「大きい」社会学である。歴史的にも空間的にも対象事例を大きく取っている上に、問題関心も哲学的基礎づけに対抗していて「大きい」。では、現代の私たちがこうした巨人たちを真似できるかというと、少なくとも私のような「小さい」人間には、一応挑戦してみたもののとても無理で、かえってお化けに脅かされる危険の方が大きかった。

お化けというのは、まず「小さい」人間が「大きい」ことを想像すると、たいてい妄想になってしまうことである。文学的空想ならいいが、現実から離れられない社会学にとっては致命的だ。次に「小さい」人間が「大きい」ことを妄想でなく考えるには公共的な知識に頼らざるを得ないが、それを正確に学習、理解することがとても難しい。たとえば中学高校で学んだ歴史や地理の知識を鵜呑みにしてはいけないが、受験秀才ほど得意になって鵜呑みにするし、逆に落ちこぼれは全否定して妄想的なトンデモ本に走ってしまいがちである。いっそう厄介なのは真ん中へんの人びとで、中学高校の勉強を使い捨ての受験ゲームのアイテムくらいにしか考えていない。

さらにこの中学高校の勉強も、昔の教科書はマルクス主義の大先生たちがまったく空気を読まずに好き放題書いていたのが、今では文科省やらマスコミやらネトウヨやら自民党やら、空気を読まなければならない相手が多い上に、元受験秀才の執筆者たちは皆さん空気を読むのがお得意なので、だんだんつまらない「シケ単」みたいになってしまった。私の母校で、私たちの頃使っていた老舗のY社ではなく、最近新しく編集された教科書を採用したと聞いて、今の先生方の勇気と見識に感心したのだが、逆に言えばそれほど中学高校の勉強が危機的なのだ。といって、ひとりの力で、意見の異なる人にも納得してもらえるような公共的な知識を蓄積するのは、「小さい」人間にはやはりとても難しい。「下手な釣りびと」に例えられるように、たくさんの本を積み上げただけで一生終わってしまう。

一方「小さい」社会学も、やり方は色々あるだろう。売れっ子の岸政彦氏流の『断片的なものの社会学』(2015,朝日出版社)もその1つかもしれない(この本がチョロッとデュルケム批判なのは先便で触れた)。本稿では、推薦図書各分野「一冊」居士の私の師匠がかつて薦めてくれた、湯沢雍彦『小さな家族論』(1994,クレス出版)を1つの先例として挙げておきたい。湯沢が「小さな」に含ませた意味は、F.ブローデルの「長期持続」に通じる家族生活のゆるやかな歴史的変化のことだが、しかし決してそうした「大きな」社会学としては語らない、というものである。自分の手元にある事実や資料から、ていねいに考証を進めていくこの本は、家族生活のゆるやかな歴史的変化という結論には異論があるものの、学ぶところがたくさんある。

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新幹線で駅弁を使うこと:新幹線の社会学5

夕方以降の下りの新幹線に乗ると、東京なり品川なり新横浜なりで乗車した客が発車後すぐにビールや発泡酒のプルトップを開け(プシュー)、弁当を開く音(ピッ、ガサッ)があちこちで聞こえる。私はいつからか新幹線車中で食事しなくなったので(上りで上京後仕事が立て込んでいるときだけは手弁当で)、そうした音をただぼんやりと聞いている。

聞きながら、この人たちは家に帰ってから夕食を食べないのだろうなと思う。男も女も皆自分では作らないし、作って待つ連れ合いもいないのだろう。1937年生まれの私の父は大企業の営業マンで、午前様のとき以外は(けっこう多かったが)、遅くなっても、専業主婦の母が夕食を用意して待っていた。たぶん出かける前に「ご飯と味噌汁だけ」と言い置いていたように覚えている。それがあるべき姿だと言うのではない。そうでないことが当たり前になれば、新幹線の駅弁もけっこう売れるだろうなと思っただけである。

子どもの頃、夏休みに東京の叔母の家に遊びに行くときの楽しみは、新幹線の「うなぎ弁当」だった。名古屋駅に着くと、同行の祖父が「それ、うなぎ弁当を積み込むぞ」と告げる。そして車販がくるのをわくわくしながら待ち続けるのだ。新幹線自体がハレの乗り物で、本数も多くなく、それほど混んでもいなかった。さらに「うなぎ弁当」よりもハレなのは食堂車。中学入学祝いの旅行の帰りの食堂車で食べたカレーライスの味は忘れられない。

バブルの学生時代、新幹線で帰省するときも弁当を買うことはなかった。帰れば家の飯があり、戻れば東京の倹約生活があるのに、なんで弁当を食べなければならないのか。それに当時の弁当は値段が高くて不味かった。それなら二階建ての食堂車の方がまだましだった。たぶん売れていなかったのだろう。だんだん弁当の内容は悪くなるのに、値段は安くならなかった。

それが21世紀になった頃、のぞみが走り出し、本数が増えた頃から、弁当の内容がよくなり、種類も増えた。周りで食べている人も、とくに夕方以降増えてきたのである。これは、新幹線に乗ることの意味がかわり、一方で帰りを待つ家族が変わったことの表れなのだろう。柳田国男が『食物と心臓』で書いたような、家で食事をすることの宗教的意味を、日本人は失ってしまったのだ。

最近さらなる変化が見られる。以前は食べ終えると、ビールの酔いも手伝って眠りに落ちる人が多かったが、最近はさらに2本、3本と飲む人や(他人事ながら、大丈夫か?と心配してしまう)、いきなりエクセルで仕事を再開する人や、ゲームや動画に没頭する人が多くなった。これも柳田国男が『豆の葉と太陽』で書いたような、ハレとしての旅の意味を、日本人が失ってしまったことの表れなのだろう。

さらに私は、早晩私と同じように、新幹線で弁当を使う人は減っていくだろうと予測している。弁当という食事のスタイル自体が、現代の日本人の生活に合わなくなっていくだろうから。駅弁は、「ななつぼし」のような年寄りの道楽の1つになってしまうに違いない。

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