1995年1月以前と以後

子ども「お父さん、今日は珍しくテレビニュース見ないね。どうしたの。」私「うん、それは・・・」

1995年1月、私は来春からのテニュアのある職を得、どちらかがそうなったら結婚しようと決めていた連れ合いとの結婚の準備を進めていた。年末に職場や友人に公表し、正月に帰省した時には、亡父がはじめて写真館で家族写真を撮ろうと言い出した。2月はじめに結納、3月末に同居、披露宴と新婚旅行は仕事が落ち着いた秋頃かな・・・。小さな不安はたくさんあったけれど、ほぼ希望だけが私の心の中を占めていた。

それから25年、目の前にいる子どもも含め、今ここにある世界が事実であり、シュッツのいう「至高の現実」ではある。しかし私は、1995年1月以前の世界から吹いてくる生温かい風に今も引き戻され、目の前の現実から目をそむけつづけている。

 

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大日本帝国軍艦扶桑:カイゼンの行き着く果て

授業カイゼンアンケートを読みながら、ふと「毎年カイゼンしていった果てはどうなるんだろう」などと考える。エクセレントプロフェッサーの栄光、なわけないか。

小学3年生の頃、『宇宙戦艦ヤマト』がきっかけで軍艦マニアになり、本屋で雑誌『丸』を立ち読みする変な子どもになった。近所に「六甲模型」という名の大きな模型屋があって、ショウウィンドウにウォーターラインシリーズの色つき完成品がたくさん飾ってあったので、学校が終わると何度も眺めに通った。小遣いが少なくて630~720円する戦艦や空母はとても買えず、240円だったかな、安い駆逐艦ばかり増えていった。郵便局から為替を送って、『丸』の水雷戦隊史特集を購入したのもその頃だ。

並み居る小さな艨艟のなか、ひときわ魅せられたのが戦艦扶桑である。寸詰まりの艦型にてんこ盛りの砲塔、そして何より、狂気の沙汰といえるほど高く積み上げられた艦橋。不合理の権化のようなその形状は、少しだけスッキリした姉妹艦山城とともに強く惹きつけられるものがあった。『丸』で戦歴を読むとはなはだ芳しからず、最期は「おとり艦隊」の旗艦として、1200人の乗組員ほぼ全員がフィリピン・スリガオ海峡に散った。いいところのなかった艦である。

しかし、1915年の竣工時には帝国海軍最初の超弩級戦艦だったのである。そのときの写真を見ると、すっきりとした実に強力な艦容なのだ。それが急速な時代の変化についていくために、無理なカイゼン(改装)を重ねた結果、グロテスクで時代遅れ、役立たずな艦になってしまった。そして30年後に役立たずなまま撃沈されたのである。

教壇に立って28年になる私も、無理なカイゼンを重ねた結果、結局時代遅れ、役立たずなまま21世紀の社会学の海に沈んでいくにちがいない。

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青葉繁れる桜井の:小津安二郎の『彼岸花』

小津安二郎監督の代表作と言えば『東京物語』か『麦秋』、玄人好みでは、宮川一夫と組んだ『浮草』や、初期の『東京の合唱』になるのだろうが、私は断然『彼岸花』(1958、松竹)である。初のカラー作品で赤の発色が美しい上、事実上の主演女優が原節子ではなく、田中絹代であるところもうれしい。

だが、一番気に入っているのは、後の『秋日和』や『秋刀魚の味』で繰り返される、初老の男たちの交友のシークエンスである。初中終小料理屋「若松」(甘味処ではなくて)に集まって、高橋とよの女将をからかいながら、ダラダラと飲んでいる。若い頃に見たときには、いつか自分にもそうした時が訪れるのだろう、と思っていた。病気の後飲めなくなって、残念だ。

『彼岸花』では、男たちは愛知県蒲郡の旅館で同窓会を開く。夜半宴も果てた頃、周りにせがまれて、あまり陽の当たらなかった男、笠智衆が楠木正行の辞世の詩吟をうたう。笠が途中でやめると、軽薄な成功者、中村伸郎が唱歌『大楠公』を口ずさみ始め、北竜二や織田正雄 菅原通済、江川宇礼雄、といった男たちが次々と歌い継いでいくという演出である。さらに次の朝、汽車に乗った主人公の佐分利信が淀川の鉄橋を渡っていくとき、再度『大楠公』のメロディが流れてエンドマーク。つまりこの映画の男性の部分を集約する表象が「青葉繁れる桜井の~」なのである。そこに込められた意味は何なのだろう。

明治生まれの、私たちの祖父たちなら皆その意味を明快な言葉で語ることができただろう。しかし、もう私たちにはそれは分からないし、分からなくていいのだ。

1つ面白いのは、同じように明治生まれの祖父を持つ連れ合いの「青葉繁れる」は短調なのだ。本来は長調だが、地域に異伝があったのかもしれない。

写真は皇居前広場にある、高村光雲制作、住友別子銅山による楠木正成像。

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謹賀新年:2020年、今年の夢

今年の夢、難易度の高い順に。

サーフィンをする。老いて足腰立たなくなる前に。昔豊橋表浜で、ひとり波と格闘していた少年に憧れて以来の夢。

英語をペラペーラとしゃべる。中学生の頃、英語教師に英和辞典で頭を殴られて以来の悲願。

一見やりがいのありそうな仕事を絶対断る。実はこれが一番難易度が高い。

今年もよろしくお願いいたします。

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餅の贈与論:子どもの頃の遠い思い出

子どもの頃、中筋家は商店街で菓子を売っていたが、元々は青物の仲買商で、昭和戦前期に建てられた家は、商品を揃えるスペースとして玄関が広く取ってあった。歳末には、そこで餅つきを行った。石の臼をトンカチ型の木の杵一本で搗く関西スタイルだ。搗くのは今は見られない賃搗き屋の若い衆たち。石の臼の分だけでは近所に配るのに足りないので、まだ性能の低かった餅つき機がブーンと低いうなり声を上げていた。子どもの舌にも餅つき機の味は悪かった。暗い白熱球の灯りの下で、たくさんの大人たちがワイワイガヤガヤ働いている。それが私の歳末の原風景だ。

年明けには、母の実家から、母の母の郷里の金沢の習慣らしい、薄く切った色とりどりの餅が届く。いや、年賀のみやげに持たされたのかも。海苔の入ったのや海老の入ったのが美味しかった。

東京・下井草でひとりぐらしをしていた頃、近所のスーパーに新潟から賃搗き屋が来ていた。私は懐かしくてつい、休み時間のお兄さんたちと長話をしてしまった。ただの対面販売ではない、幸福の無償贈与のような空気がそこにはあった。令和の今、そうした美しい国の習慣が続いているとはとても思えない。

今わが家では、木のボウルに蒸した餅米を入れ、麺棒で搗いて、正月の雑煮用の白丸餅だけ作っている。ほんとうは、父方の曾祖母の郷里、香川善通寺の習慣である、あん餅の雑煮にしたいのだが、まあこれも二度と口にすることはないだろう。うちのあん餅雑煮は、あんを塩で練るのでまたひと味ちがいます。

餅の意味するところ、昭和後期生まれの私も深く知っているわけではない。その浅い知識すら、時間に流され、遠く過ぎ去って行く。

今年も読んでくださってありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。

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生ききった者にのみ安らかな死がある:野口晴哉の整体との関わり

整体協会の機関誌『月刊全生』の1997年3月号の1月入会者欄に私の名前が記載されている。整体協会は少し前に大幅な組織替えを行って、私の指導者たちは皆引退してしまったので、私も今は会員でない。しかし偶々バックナンバーで上記の記載を見つけて、懐かしい思いがした。

整体協会は、近代日本の民間療法家の中でもっとも影響力があったといえる、野口晴哉(はるちか)が始めた団体である。私がこの団体を知ったのは、まだ結婚する前の連れ合いに誘われたからで、連れ合いは師匠の見田宗介先生から教わったのだった。当時の見田ゼミは、竹内敏晴とか鳥山敏子とか野口三千三(野口体操、野口整体とは別)とか、そうしたこと(ばかり)を学んでいて、私はそうしたニューエイジ的雰囲気を敬遠していたが、結局その毒気にあてられたということかもしれない。

はじめて一般も参加できる会に出たとき、そこで営まれる、大人数の一人ひとりが身体の内発的運動に委ねる「活元運動」の異様さにたじろいだが、その際流される音楽が私の得意なマーラーの交響曲だったので、首の皮一枚でつながったという感じだった。しかしはじめの数年間は、連れ合いのお付き合いの範囲を越えなかった。

ミイラ取りがミイラになったのは、結婚後入会してから半年くらいして、ある指導者からほとんど命令されて参加した会でのことだった。中途半端な気持ちで参加していたのだが、一緒に運動している背後の人から何とも言えない清々しい感じ(整体協会では「気」という)が伝わってきた。運動している間は目をつぶるのが約束なので、誰かは分からない。私はきっと指導者だと思った。終わって目を開けたとき、私の背後にいたのは小さな子どもだった。そのとき私の中で何かが弾けたような気がした。それは、子どもを生み、育てようという決意だった。

野口晴哉は近代日本有数のレコードコレクターとしても知られていた。『月刊全生』のどこかに、「ベートーベンの『運命』、休符で始まるなんて気が小さい。」という言葉を見つけて、私は目を見張った。フルトヴェングラー流の「ジャ、ジャ、ジャ、ジャーン」は間違った偶像だ。「ン、ジャジャジャ」の「ン」が生きたベートーベンなんだ。

私の研鑽が足りないからか、整体はうつ病を防いでくれなかったし、私の人生をバラ色にもしてくれなかった。でも、たぶんこれからも、私は野口晴哉を自分の人生の助言者にしていくだろう。

 

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フランス風高級調理鍋:G.ノワリエル『フランスという坩堝』を読む

G.ノワリエル『フランス風高級鍋(ル・クルーゼ)』(法政大学出版局・・・本当の題はちがいます、笑)を読む、とくに第一章の理論部分を読むと、もしフランス語が少しでもできて、この本を1988年の原著刊行時に読んでいたら、今の私はなかったな、と思う。でも、そうだったとしても、きっと宮島喬先生や故梶田孝道先生の、ずっと低レベルな二番煎じになっていただろう。

結局、今きた経路をたどって30年、ようやく「デュルケム以来、移動者の思想としての社会学」といった話ができるようになってまことによかった、と言うべきなのだろう。

 

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ブラック勉強:予習復習4時間って?

今日の教授会で、来年度のシラバスから講義1回あたり予習復習4時間という記載が一律導入されることが知らされた。シラバスの内容って、教授会審議事項じゃないんだよね。これを守らないと、補助金もらえないらしい。

「大学設置基準」という有り難いお上の取り決めでは、講義2時間2単位あたり予習復習2時間ずつでつごう6時間ということなのである。しかし実際の講義は2単位1.5時間になっていて、帝国陸軍の3個連隊1師団(本当は4個連隊)同様、「美しい国」お得意の上げ底である。なら予習復習3時間でいいんじゃないの。

問題は週あたり10個くらい授業を履修すると勉強時間が60時間にもなって、40時間労働を遙かに超えるブラック勉強になってしまうことだ。どう考えてもブラックバイトと両立不可能である。4年間均等に授業を取っていくなら週8個くらいでいいのだが、それだと就活は不可能だ。できれば12個ぐらい取りたい。そうなれば72時間。仮に1.5時間換算にしても45時間~54時間でやはりブラックだ。だいたい、そんなことを言っているお役人やお社長さんたち、大学生の頃勉強なんかしなかったでしょう。ジュリアナで踊ったり、ニューエイジにはまったり、コミケに並んだり、苗場で滑ったり、赤プリのフロントに並んだりしてたでしょう。

まあ、でも時間数は別として、予習復習を実質化する方法を考えてみるかな。

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歴史社会学って何?:小熊英二『日本社会のしくみ』を読む

社会人大学院の文献講読で小熊英二『日本社会のしくみ』(2019年,講談社現代新書)を読んだ。大企業や公務員のOB、OGは経験上ピンとくるところがあるようだったが、私には、彼の言う「歴史社会学」を少し理解できたような気がしたことが収穫だった。実はこれまでまったく理解できず、どれを読んでも出来の悪い学生のように途中で居眠りし、放り出していた。だってェ、先生の話長すぎ・・・。

理解できたというのは、たとえていうならこんな感じだ。4,5,6というデータが与えられたとき、私は互いの差を取ったり、素因数分解したりして、データの「構造」を分析しようとする。1つずつ増えていくという構造理解もできれば、5を取り除いて、4と6の公約数は2という構造理解もできる。前者なら6の次は7と予測でき、後者なら8と予測できる。私の思考は後者のタイプなので、「しくみ」とは2(あるいは2の倍数)のことだ。

一方で、4,5,6という数字の並びそのものをできるだけ正確に記述しようという思考法もあるだろう。歴史学というのはそうしたものではないか。もし元のデータに5が見当たらない場合、5を見出すまでしぶとく探し続けるのもその一環だ。逆に、次が7とか8とかいうのは邪道である。

小熊氏の思考法は以上のどちらでもないようだ。4,5,6のうち5を取り除いて4,6をそのまま「しくみ」と言っているように思われるのである。だから、それを「歴史」(5を取り除くな!)+「社会学」(1か2を取り出せ!)という意味が私には理解できなかったのだ。しかし、まあそういう思考法もあるだろう。5(この本の場合、それは家事労働も含む女性の労働である)を取り除いた正当な理由さえ、明記されていれば。なお、彼には次が7とか8とかいう気もないのだろう。4と6を2の倍数としてではなく理解することが重要なのだ。

そう言えば、私たち(小熊氏は私より年長だが、研究歴はやや若い)が学生の頃、文学や芸術の評論に、1や2といった「構造」ではなく4,5,6といった「表層」を見るべきだという流行があったことを思い出した。小津安二郎監督の映画『麦秋』で繰り返し映される「鳥かご」とか。昔習ったことはなかなか忘れられないものである。この考え方だと5を取り除いてはいけないはずだが、実際の多くの評論は、理由を明らかにせずに5を取り除いていた。

この本を読んだからと言って、私は2と取り出そうと苦心する自分の思考法を捨てないだろうし、4,5,6,をできるだけ漏れなく見出そうとする自分の調査法も捨てないだろう。その意味で、小熊氏の学問と私の学問は決して触れあうことはない。

大学院生指導的には、先行研究として、福武直『日本社会の構造』(東京大学出版会)も、富永健一『日本の近代化と社会変動』(講談社学術文庫)も引用、検討していないのは、学術書としてはバツですよ、ということになる。

 

 

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マルクス、長い友人のように

職場の年長の同僚と話していたら、「最近新しいマルクス研究者がいるよ。エコロジーとマルクスが専門で、ドイツで学位を取ったそうだ」との話、「ああ、その人なら少し前の朝日新聞に出てましたね」と答えたが、朝日の紹介はつまらなかったので、それ以上話を広げられなかった。

私たちくらいまでの世代の社会科学者は、専門にかかわらず、マルクスを多少は勉強したはずである。なぜなら、先行研究の多くが、マルクス主義の用語か、マルクス主義の裏返しの近代化論の用語で書かれていたし、それ以上に師匠がマルクス主義に立脚していたから。うちのゼミなど、学部の学生たちですら、「先生の結論はいつも国家独占資本主義だから、うちのゼミの名前は『国独資』ゼミにしよう」などと言っていた。同級生は大手商社に就職したことを別の先生に報告したら、「君は独占資本の手先になるのかね」と言われて悄げていた。もちろん悪いジョークだったのだろうけど。

といっても、読んですぐ分かるはずもなく、また労農派とか、宇野派とか、講座派とか、構改派とか、ちっちゃなちがいがたくさんあって、慣れるのに一苦労。『ドイツ・イデオロギー』を『ド・イ』というか『ド・イデ』というか・・・どっちでもええやん!。

『資本論』の筋書きが漸く頭に染み通ってきたのは就職した30才の頃で、その感激が今でも岩波文庫版の第一巻の表紙見返しに書き込んである。しかし、その頃にはもう「今どきマルクスなんか、ねえ」になっていた。

R.ペック監督の映画『マルクス・エンゲルス』(原題は『マルクスの青春』?)を家族で見たとき以来、なぜか子供は、私を赤い大学の赤い学者と思い込んでいる。そんなことはないんだよ。ただのマネジメント大学のただのネオリベだよ。

でも、せっかく身についたものだから、これからも大切にして、ときどき取り出して、セッセと磨き、たまには巻き簀でも切ってみるか。

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