論文書きました:「多様性の批判的活用」

オオ友よ、このようなお菓子ではない。もっとマジメな勉強の話を!

病気以来はじめて論文らしきものを書いた。甲南大学の阿部真大先生のお取り次ぎ(後輩だが面識はないのでありがたいこと)。論文というより、ここの投稿の長いのみたくて恥ずかしい。「多様性の批判的活用」、題だけは勇ましく。

10年くらい前、対談だけど『建築雑誌』に出させてもらった。都市系の伝統学会誌にもう1つ小さな足跡を残せたのはうれしい。

書いてみると次に考えないといけないことが分かった。やっぱり書いてないといけないな。

よければpdfさしあげます。

https://www.cpij.or.jp/com/edit/info.html

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生ききった者にのみ安らかな死がある2:整体指導者の死を悼む

私たち家族が長年お世話になった国立の整体指導者が亡くなられた。享年88。この状況下では見舞いはおろか葬儀にも参列できなかった。ただ遠くから悼む他はない。

25年前、新婚の私たちは西国立に貸家を借りて住み始めた。それまで日暮里の指導者に付いていた連れ合いは、遠すぎるので近くで紹介してもらったのがこの指導者だった。連れ合いはいそいそと通い始めたが,帰ってくる度身体も機嫌も悪化するように思われ(これは野口整体の入り口である)、今日整体に行くと聞くと私は緊張した。こんなことで新婚生活をうまくやっていけるのだろうか。悩んだ挙げ句、毒食らわば皿までとばかり自分も通ってみることにした。それは指導者の思うつぼで、きっと一緒に来るようになると思っておられたそうである。そこで私に生じた変化は先に書いた。子どもを持ちたくなったのである。

98年から5年間の豊橋時代にほとんど接触はなかったが、名古屋に移って1年くらい経った頃から夏と春の年2回、家族を乗せて中央道を走って会いに行くようになった。それぞれの実家と疎遠になっていた私たち家族にとって、そこはもう1つの実家のようだった。指導者の方もとくに連れ合いを実の娘のようにかわいがってくださった。

私が法政大学の教員であることに指導者は特別な思いを抱かれていた。というのは、彼女のお父さんは戦前の予科の名物教授で、応援団の創設者だったからである。しかしお父さんは教え子たちを戦争で死なせた罪の意識から深酒になり、戦後すぐに亡くなった。彼女は高等女学校を出た後映画女優になって(北原三枝や芦川いづみと同期か?)家計を支えた。映画が斜陽になっていわゆる「ドサ回り」も経験した後(田岡一雄に興行を仕切ってもらったこともあったそうだ)、一念発起野口晴哉に入門した。内弟子として住み込みで一から学んだのである。そんな彼女はきっと私に亡きお父さんを重ね合わせておられたにちがいない。だから私がうつ病になったとき、いつも自信たっぷりの彼女は非常に混乱した。これもお父さんの最期を重ね合わせておられたにちがいない。

悲しいと言えば悲しいが、その死には何か爽やかさがある。野口晴哉のいう通り、彼女には「生ききった者にのみ安らかな死がある」からにちがいない。合掌。

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わがディスタンクシオン:小倉百人一首に寄せて

母の実家は祖母が1男4女の末娘、母が3人姉妹の真ん中なので女の気に満ちていて、年賀のあいさつの後は必ず百人一首カルタになった。もちろん小さい頃は坊主めくりで、カルタは少し大きくなってからだが。高校の国語教師の叔母が解説書をくれたので、一所懸命覚えた。

帰って父方の祖母にその話をすると「うちでもやる」と息巻いたが、残念ながら根づかなかった。一人っ子の家付き娘の祖母がいくら威張っても、中筋は働く男の家なのだった。

このカルタ、中学に入って古文を学ぶようになるとたいへん役に立った。身に染みているというのだろうか。まったく勉強しなくても古文の成績は悪くなかった。有名な橋本武先生の授業の新年の恒例はカルタで、得意な私は読み役を任されたことが小さな自慢である。

十八番(オハコ)は誰もがはじめは「天の原」だろう。私は早くに卒業して、ながく「来ぬ人を」だった。色気づいてくると「由良の門(と)を」、人生に行き詰まった頃は「諸共に」。専修大学や立教大学で「社会史」を教えていたときには、「イエの消長」というテーマで「仮庵(刈穂)の庵」に始まり「古き軒端のしのぶ(忍草)」に終わる一族の悲しみを語った。もっとも村上泰亮理論ならば、それはイエ社会ではなくウジ社会だが。

子どもたちも大きくなって、もうカルタをすることはない。今の私の心の中の十八番は「海(わた)の原漕ぎ出でて見れば久方の雲居にまごう沖つ白浪」である。悪左府頼長の兄、法性寺入道先関白太政大臣藤原忠通の歌。「田子の浦に」と「海の原八十島かけて」を合わせた本歌取り。普通の解説本には「位人臣を極めた者らしいスケールの大きな歌」としか書いていないが、私には死の歌にしか思われない。雲居すなわち極楽浄土を求めても、ただ打ち返す白波のような現世に翻弄されるばかり、という。

こういうのもディスタンクシオンなんでしょうな。

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亡父の死の風景:新年早々すみません

ツイッターでつながっている永太郎(ながたろう)さんという地理学の方が元日の夕暮れの美しい写真をアップしていて、ふと見るとそれはまごうことなき亡き父の死の風景だった。被写体は三菱重工神戸工場本館だが、その向かいの建物は三菱神戸病院、父が亡くなった病院である。

父は神戸大学経営学部を出た後、公共企業論の指導教授推薦の大阪ガスを蹴って三菱電機に就職した。東京に出たかったからだが赴任地は自宅から1キロも離れていない神戸製作所で、大阪に異動するまで10年ほどそこで働いた。最初の職場は資材部で、取引先の電線会社の電話嬢だったのが母である。幼い私はひとりで出歩けるようになると、工場の正門まで定時で退社する父を迎えに行った。サイレンが鳴ってたくさんの工員さんが出てくるなかに父を探すのは幸福な時間だった。数年後会社の運動会で父が年長の工員に横柄に接するのを見るまでは。同じ頃父は原発建設に関わるようになり、関電の接待接待でどんどん帰りが遅くなった。それに私たち家族は祖父母の家を出ていたので、工場に迎えに行くこともなくなっていたのである。

癌を病み、一度心肺停止になった父は、その後の治療先を行きつけだった三菱神戸病院に定めた。私は経歴上医者の友人が少なくないので最適な病院を紹介してもらうと母に持ちかけたが、母は「私も聞いてみたけど、あそこがええ、って聞かへんねん」とあきらめ顔だった。その時はよく分からなかったが、自分の郷里に近い最初の職場の付属病院を、父は死に場所に決めたのだろう。昭和10年竣工の、父とほぼ同い年の古ぼけた病院に。

再度父が危篤になったと知らされ、名古屋から車を飛ばしたが、新名神の土山のあたりで父は死んでしまった。狭い病室で対面した後、真夜中の人気のない本館と病院に挟まれた通りに出て、私は呆然としていた。ツイッターの写真はその時の風景を思い出させてくれたのである。

昨年が7回忌だったのにずっと忘れていたが、また父のことを色々考えたくなってきた。

http://kindaikenchiku.seesaa.net/article/425593733.html

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犬吠埼:2020年末のご挨拶

最近「犬吠埼」という言葉を思い出した。地名ではなく「調子(銚子)っ外れ」の意味で、一般的だと思っていたが手元の電子辞書にはない。いつ聞き覚えたのだろう。

地名の犬吠埼には大学3年生の時一度だけ訪れたことがある。免許取り立ての同級生4人で渋谷でレンタカーを借り、徹夜で水戸街道を走って大洗海岸に日の出を見に行った。1人が(この友人は長年勤めた銀行をやめて今司法修習生、少年非行の弁護士になりたいという好漢である)「いい日の出を見たい」と言うので私が「それなら常世につながる大洗海岸」と提案し、急ごしらえのドライブがはじまった。素晴らしい日の出を拝んだ後鹿島神宮を回って銚子駅に出、観光案内所で外川漁港の民宿を予約し、犬吠埼に寄ってから泊まった。ただ、大洗の日の出の印象が強すぎて犬吠埼は風が強かった印象しかない。

「犬吠埼」という言葉を気に入っている。本当は「調子」はいい方がよかった。ヴィルヘルム・ケンプの弾くヘンデルの「調子のいい鍛冶屋」のように。でも「調子っ外れ」でもまあいいか、と思えるようになってきたのである。来年は暇を見つけて犬吠埼、再訪したいな。

https://www.youtube.com/watch?v=TAnKxsu7zaQ

今年もお付き合いくださり、ありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。

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素人体癖論:左右型から前後型六種へ

先便でフランスの社会学者ピエール・ブルデューの人柄は、野口晴哉の体癖でいう「左右捻れ」ではないかと書いた。全くの素人診断で、医者ではないものの会員の健康を預かる整体指導者からすると迷惑千万かもしれない。でもまあ、文庫本も出ているので、素人談義もある程度までは許されるのではないか。

若い頃、親友に「右は河津清三郎、左は田崎潤」と笑われたことがある。私の顔が左右でちがうことを評したのだ。誰でも顔は左右で少しちがうのだが、とくにはっきりしているのが左右型体癖の特徴である。若い頃は今より20キロ近く太っていたので、顔がデカくて濃い俳優に当てはめた評は全くその通りだったと思う。私としては『海底軍艦』の武骨漢田崎潤もいいけれど『洲崎パラダイス 赤信号』の色男河津清三郎の方がよかった。

職場指示の特定健康指導で最近10キロ近く痩せた。SNSなどに上げている今の顔はもう「右は~」ではない。ヘチマのように長くて顎がしゃくれたそれは父方の祖父そっくりである。そして、祖父の郷里から古い街道で50キロ先の土地で祖父より35年前に生まれた、あの人にも似ているような気がするのである。柳田国男。この風貌は前後型六種で、細かいことに固執する割に誇大妄想的なのが心理上の特徴だそうである。

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左右捻れ:ディスタンクシオン第二夜

野口晴哉『体癖』(ちくま文庫)は身体の動きの傾向と心の動きの傾向を重ね合わせて5つの分類を立てた(厳密には6つ)。正邪にこだわる上下型、好き嫌いにこだわる左右型、損得にこだわる前後型、勝ち負けにこだわる捻れ型、そして、ちょっと説明が難しいが人の集まり方にこだわる開閉型。うちの家族は私が左右、連れ合いが上下、子どもたちが開閉である。1つだけではなくてたいてい2つくらい組み合わさってい、その他の体癖も時々顔を出すことがある。私の2つ目は前後と上下が入れ替わり。

NHKETV100分で名著『ディスタンクシオン』第二夜、見出しが「趣味とは嫌悪であり闘争である」。ブルデュー先生、左右捻れ! 実物を見た記憶でもたぶんそう。

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ユルム街の憶ひ出:100分で名著『ディスタンクシオン』を見ながら

私たちは黙って冬の日だまりのユルム街を後にした。

もちろんユルム街で学んだわけでも、辛い失恋をしたわけでもありません。

大学院生の頃、学部で1年先輩の友人と初めてパリを訪れた。主たる目的は有名レストランの食べ歩きだったが、私にはぜひ行きたいところがあった。それはソルボンヌのオーギュスト・コント像とユルム街の高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリウール)である。前者は社会学の祖に一応敬意を表して、後者は高校生の頃山口昌男『文化人類学への招待』(岩波新書黄版)で知って以来C.レヴィ=ストロースのファンだったのでその聖地巡礼。

しかし当時の私は高等師範学校がどんな学校かもよく知らず、ましてやレヴィ=ストロースがパリ大学法学士からのアグレジェ(大学教授資格者)でノルマリアン(高等師範学校生)ではないことも知らず、「一所懸命に勉強しているといつか留学できるかも」くらいの認識だった。

門前らしき街角にたどり着いたが、何の看板も赤門のような目立ったシンボルもない。仕方がないのでどんどん入っていこうとしたら、守衛さんらしき人から大声で呼びかけられた。フランス語の聞き取れない私はたちまち怖じ気づき、踵を返してしまった。フランス語の聞き取れる友人が「たぶん『今日は休みだけど』と言っていたんだよ」と教えてくれたが後の祭り。

一方で、「次来るときは堂々と正規の資格を持って門をくぐるわい」くらいの気持ちもあったのである。若かったな、その次はなかった。

隣のクラスのフランス語の担任、加藤晴久先生の『ブルデュー 闘う知識人』(講談社選書メチエ)は知識が豊富でたいへん勉強になる本だが、知識がないこともまたよきかな、としみじみ思う。

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リアリティ・トランジット私論:成瀬巳喜男監督『放浪記』に寄せて

学部の科目「地域社会学」改メ「グローバル社会のローカリティ」第10回は「リアリティ・トランジットとアート」というテーマで、吉見俊哉先生のリアリティ・トランジットというキーワードを導きの糸に、さまざまな移動空間を生きることのリアリティとそこに育まれる文化や思想の可能性を考えることにしているが、今日話している時(といっても授業用掲示板への書き込みだが)、ふと成瀬巳喜男監督の『放浪記』(1962年,東宝)のラストシーンを思い出して胸が熱くなった。

ずいぶん昔に見たのでうろ覚えだが、売れっ子になり、マスコミの応対に疲れた高峰秀子演じる主人公芙美子が、こたつでうたたねする(その眠りには近づく死が暗示される)。その肩に小林桂樹の夫がどてらを掛けてやる。映像は芙美子の夢の中に切り替わり、海端の遠く続く街道をゆく行商人の義父織田政雄と母田中絹代を幼い芙美子が追っていく。そこにあの「花の命は」のテロップが重ね焼きされてエンドマーク、だったと思う。

保養地での一族のピクニックに招かれるベルイマン『野いちご』とも、土手で虹色の雲と戯れる黒澤明『まあだだよ』ともちがう、厳しくも寂しいリアリティ・トランジット。しかし今の私には成瀬の描く映像こそ好ましい。

『放浪記』は成瀬の映画としては『浮雲』や『めし』ほど取り上げられないが、いい映画ですよ。警察に捕まって「オイチニの薬屋」の歌をむりやり唱わされる織田政雄、芙美子を捨てたつもりが捨てられて死んでしまう運命を受け容れる宝田明、そして木賃宿で出合い、限りなく地味で優しく接する小林桂樹、男たちのどの役柄も強く印象に残っている。

昔読んだ室生犀星の芙美子への追悼文のなかに、この映画を東宝の試写室で見て、若い日の芙美子のことをしみじみ思い出すくだりがあったことを、これもうろ覚えに覚えている。

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迷宮としてのイエ社会:新聞連載小説に触発されて

朝日朝刊、池澤夏樹の連載小説『また会う日まで』がクライマックスを迎えている。昨日の連載第118回で彼の父の出生の秘密が明らかにされた。連載当初は興味を引かれなかったが、最近急に面白くなってきた、というか作者の筆に重みが出てきた。さもありなん、それは彼がいつか必ず書かなければならないことなのだろうから。

一方でこの小説には帝国海軍の話が多く、挿絵も明治大正期の軍艦のかなり精密な絵が続いている。今日の連載119回の挿絵は戦艦山城の艦橋で話の展開と対応している。国産の弩級戦艦山城の登場は帝国が世界の軍事大国の仲間入りをした証しであり、その後の破滅への道の始まりでもある。それは彼の父福永武彦が生き、文学の力でそこから隔たろうとした時代でもあった。

この小説のもうひとつの味は戦前日本のプロテスタントの信仰についての話である。私の母方の祖父も旧武家の家の宗教を守りながら、個人としては無教会派のキリスト教徒だった。私が大学に合格して上京するとき、半ば認知症が進行していた祖父は「また遭う日まで」と讃美歌『神ともにいまして』を歌ってくれた。

戦前までの(いや今でもかも)日本のイエには、共有しなければならない成員の出自の秘密がどこにもあったのだな、と思う。戦後になって出自の秘密が少なくなっていく世代にとっては、そのことがいつか探究しなければならない課題になったのだろう。山口瞳の『血族』もそうだし、大江健三郎の後期の作品群もそうだ。このことは微温的な家族社会学にとっても社会学一般にとっても射程外にある冷厳な現実である。

かくいう中筋の小さなイエにもそうしたことがある。大学院生の頃、中野卓の『口述の生活史』にハマった勢いで祖母と祖父に根掘り葉掘り聞いたのだが、あるところで2人の話が合わなくなった。家付き娘の祖母と婿養子の祖父、その祖父は中筋の本家から2つ峠を越えた村の出身で、両家は何代も嫁のやりとりがあったので、中筋のイエの事情を知っていたのだ。その話では私の小さなイエが本家から分かれた事情はかなり複雑で、そのことが曾祖父がムラを出される理由にもなり、私の幼い頃、中筋ではない姓の家からいろいろな山のものが送られてきたりしたのである。しかしそのことを祖母は祖父の勘違いだという。そこで私は聞き取りをやめてしまった。仮に祖父の勘違いでも勘違いするだけの何かがそこにはある。でも、それはもう聞かなくてもいいことなのだ。

その小さなイエも5代目の私に男子がいないので、祖母は上の子に婿養子をとるよう遺言したが、そんな時代ではないのでもうお終いなのである。

https://www.asahi.com/articles/DA3S14565143.html

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