練炭豆炭:現代史への手がかり

若い経済史家の方のツィートにブリケットという言葉があって、どうも練炭豆炭のことらしいが、そう書いてもらわんと年寄りには分からんよ、とリツィートしたら、豆炭という言葉をはじめて聞いたと言われた。まあ、そうですね。これは年寄りの私が悪い、すみません。

その方はドイツと日本のブリケットの普及と流通の比較に関心をお持ちなのだが、たいへん面白いテーマだと思う。私の記憶では練炭豆炭が消えていくのと入れ替わりにレンジでチンというのがやってきたからだ。ドイツはどうだったのだろう。

私の生家の近隣(斜め向かいと5軒先)には2軒も炭屋があって、練炭豆炭だけでなく薪や木炭も売っていた。もちろん夏は氷屋。商店街(関西では市場という)にある店の台所はまだ薪をくべるかまどで、名前通りカマドウマがいた。1970年の大阪万博の頃である。

カメラをパンすれば、国内炭田の廃坑と引き換えの原発増設の時代であるし(炭労から電力労連へ?)、汽車が消えて電車が定時、定間隔で運行されるようになる時代だ(ヨンサントオで青森電化)。いつまで経っても目的地に着かない福知山線が遅延でスピード出し過ぎて大事故を起こすなんて想像もできなかった。

高度経済成長期とくにその後半、私たちの生活の「かたち」がどう変わったか、それをオーケストラの総譜のように同時並行的に描き出すことができれば、フーコー流の言説史よりずっと深刻に私たちの身体と精神の変容あるいは堕落を描き出すことができるだろう。

練炭豆炭の話に戻れば、私の生家から豆炭が消えたのは、祖母が愛用の火鉢の傍でうたた寝して一酸化炭素中毒になりかけたからである。火鉢のせいではない。部屋の密閉性が高くなったからだ。火鉢の明るく熾った豆炭であぶった掻き餅の味は、もう味わうことができない。バーベキューなんかとは・・・。

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生きる:ドキュメンタリー映画『荒野に希望の灯をともす』を見て

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黒澤明監督の代表作『生きる』(1952,東宝)のよく知られたシーン、生涯の仕事を見極めた主人公がそれを阻止するヤクザの親分と対峙するシーン。死を覚悟した主人公の気迫を感じた親分が黙って立ち去るのだが、親分役の宮口精二の方は後に本人も語ったように入魂の演技で、修羅場をくぐってきた凄惨な人物を感じさせる一方、主人公役の志村喬の方はうすら笑いを浮かべるばかりで死の覚悟が伝わってこない。志村が凡優なのではなく、明らかに監督に演出の術がなかったのだ。だから黒澤は、志村ががんばりすぎて今ひとつの出来だったなどと責任転嫁しているのだ。すぐ他人のせいにするのは野口晴哉のいう左右体癖の悪いところである。野口に従えば、そもそも生への執着が強い黒澤のような左右体癖の人間には死の覚悟など想像さえできないのである。

長年貢献したアフガニスタンで凶弾に斃れた中村哲医師の記録映画『荒野に希望の灯をともす』を見終わって、そんなことを思い出した。この映画の初版にあたる2016年のテレビ番組(『武器ではなく、命の水を』2016,NHKETV)を私は見ている。その時に感じた恐怖を今日再び感じたからだ。一心にパワーショベルを操る中村さんの目は、私にはものすごく怖かった。それは明らかに死を覚悟した人の目だったから。もちろん2016年の時点では3年後の悲劇は未知である。しかしきっとそうなるだろう、かつその運命を彼は懐にしっかり抱いているように私には見えた。命がけとか捨て身とかいった粗野なことではない。運命とともに今を生きる。それが死を覚悟するということではないか。でも、そんなこと、私にはとてもできない。

『生きる』のラストシーン、黒澤映画の常道で、主人公を理解できないけれど主人公に憧れる若者役の日守新一は、主人公が作った児童公園の上に懸かる陸橋から、さらに上に広がる夕焼け空を眺める。極彩色の(白黒だけど)空に、黒澤も、黒澤と同じ左右体癖の私もやっと死の覚悟というものを微かに感じるのである。

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山雲濤声:東山魁夷に迷い込む

先日近美でドイツの御用画家、ゲルハルト・リヒター展を見て以来、ずっと東山魁夷のことを考えている。もとよりファンではない。雨上がりの山を見て「東山魁夷」とつぶやくくらいの低俗さだ。ただ唐招提寺御影堂の障壁画「山雲濤声」だけは、何度見ても(もちろん実物ではなく画集とかテレビとかだけど)泣けてしまう。画面の下から荒波砕ける岩を眼で登っていくと突端にただ一本の蒼々とした松。それはこの画の背後に安らぐ鑑真和上の象徴であり、また画家の尊崇と思慕の集約である。私にとってはまるで映画のクライマックスのようにグッとくる絵なのである。

まずは本を読んで考えてみようと、一番手軽な『日本の美を求めて』(1976,講談社学術文庫)を読み始めた。そのなかの、まさに「山雲濤声」の章の一節に目が止まった。

「私は(1973年の)一月の寒い季節から春にかけて、青森県から、だんだん日本海側を南下しまして、ついに山口県の青海島というところまで旅をかさね、各地の風物を見たり、スケッチしたりしたわけです。また、山のほうは、初夏から夏の終わりにかけて、おもに長野県、岐阜県あるいは富山県の山や谷を旅しました」

私はまったく無関係な情景を思い出した。それは野村芳太郎監督の映画『砂の器』(1974年,松竹)のクライマックスで、幼い主人公とハンセン病を患った父が全国を巡礼するシークエンスである。バックには例の「宿命」の曲が朗々と流れる。物語上の設定は第二次世界大戦前だが、橋本忍がB班として(私はずっと山田洋次がB班監督だと思い込んでいた)撮影したのは、まさに東山が旅していたのと同じ時空だった。栄耀栄華を極めた現実の御用画家とそうなる前に殺人犯として転落してしまう架空の新進作曲家の間にどこも共通点はないが、しかし2人が漂泊した風景は同じだったのだ。もしその風景が(東山のいうように)2人の心の風景なら、2人の心もどこかで重なり合うものだったのかもしれない。

東山魁夷、もう少し考え続けたい。

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オペラは「前世紀の遺物」:『ペレアスとメリザンド』を見る

来週からフランス語学校通い(オンラインだけど)が始まるので、景気づけにフランス語のオペラを見に行った。オペラなんて実に30年ぶり。案の定まったく聞き取れませんでした(爆)。

大枚叩いたつもりが新国立劇場の4階のどん詰まり、オーケストラピットはまったく見えません。上野の文化会館の5階の方がまだよかったような・・・音響も。

このオペラはじめて聞くので楽しみだったが、音楽は、交響詩『海』を聞けば十分かな、という程度。大野和士が指揮する東京フィルは力演だった分音が大きすぎて、この作品がワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』あるいは『ワルキューレ』の猿マネでしかないことを暴露してしまっていた。小さく絞ればもっと別の響き(澄んだ不協和音)が聞こえてきたと思うのだが。

しかし、オペラってもう完全に「前世紀の遺物」ではないか。最近今日のような中世神話ものでも現代的な衣装でやるが、そうなると、プリマをたびたび下着姿にしたり、プリマと間男(夫の弟)の逢い引きをプリマの夫が自分の息子(プリマの義理の息子)に無理矢理覗き見させたり、夫がプリマの長い髪を摑んで引きずり回したり、プリマと間男のセックス中に夫が間男を刺殺したり・・・、ポリティカルにアウト!なシーンばかりなのである。こんなもんを芸術と有り難がっていては絶対にいけない。近頃演奏会形式での上演が多いのも、舞台を組むカネがないだけでなく、舞台に上げられないような下品な物語が多すぎるからではないか。

ただし100年前の初演当時だって、こうした物語が公の道徳に沿っていたとは思えない。つまりオペラは本質的にブルジョワの公認ポルノなのであって、その本質は今もヨーロッパのオペラハウスで毎夜続いているのである。幸い、今日の観客はポルノよりあの世の近いバアさんジイさんばかりで、青少年保護としてはひと安心だった。きっとヨーロッパでも同様だろう。それにしても2000人近いバアさんジイさんがポルノを凝視している国立の空間て、おかしくないか。

フランス語という点で1つ学んだのは、真実とか許しとか憐れみといった教会用語がセリフのなかで(音楽的にも)とくに強調されている点である。私の知る限りワーグナーやヴェルディにはそうしたことはほとんどない。革命を経てもやはりフランスはカトリックの国ということなのだろう。毎週ミサで聞く言葉(神)が血となり肉となっているのである。

例によって次回公演のチラシをたくさんくれるのだけれど、たぶんもう二度と行かんな、オペラには。

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いい話には乗れません:映画『ゆめパのじかん』を見る

とてもいい話で、出てくる子ども大人もみな真実だから、途中で出るわけにも行かず、最後まで見たら「文科省選定、厚労省推薦」とあって腑に落ちた。要するに真実の裏側は虚偽である。重ねて言う。出てくる子どもと大人は真実である。それを疑ってはいない。

帰りの電車で10年間、毎年「子の監護を欠く」と自著する申請書を書かされた屈辱が蘇ってきた。その申請のおかげで、子どもたちは毎日竹馬やコマ回しをやらされるのである(教育じゃなくて保育だから)。学童保育、バカバカしいにもほどがある。

その上、ベテランの指導員は皆昔代々木一色だった大学出身で、やることなすこと民主集中制、ついていけない新米は次々とやめていく。ついていけたら、おめでとう!あなたも代々木です。

そんな虚偽に10年付き合って、最後は区の会長までやってしまった。うつ病になって最後は惨憺たる幕引き。下の子の卒所旅行に付き合ってやれなかった。

一応専門的に見直すと、映画の舞台「ゆめパ」が設立されたのは2003年、革新市政を払拭すべく天下った元総務官僚阿部孝夫市政の1期目である。阿部市長、実は総務省の後一時期うちの職場にいたので私はちょっと面識がある。彼の計算高い頭がこの革新色濃い施設をどう受け入れたか、当然計算があったにちがいない。当然運営側にも。

一方こうしたプレーパークとか子どもの居場所といった運動は1970年代後半くらいからのながい蓄積があって(私は90年代に中野区の公民館を調査したとき、不登校の子の居場所になっているので驚いた)、2003年設立というのは決して早くない。でもそれからでももう20年なのである。この国の教育と保育はいったいどうなっているのか。知らん顔して推薦する文科と厚労の厚顔無恥には呆れる他はない。

しかし何よりこの映画の最大の欠陥は、最初から最後までお父さんという存在がまったく出てこないことである。いやそれが事実だから、と製作者はいうだろう。そこが問題なんだよ。お父さんが不在で男の子が暴れるから、お兄さんが付いて自由に遊ばせて社会ルールを教えましょう、というのがプレイパークのはじまりの論理だから。市民の側のその構造がちっとも変わっていないか、変わっていない市民だけをこの施設が相手にしているのか。

近頃流行の「他者の合理性の理解社会学」では、この施設の虚偽は見抜けない。やはり構造主義的な語りと、公共的な怒りが必要だ。

http://yumepa-no-jikan.com/#modal

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人は死んだらどこへ行けばいいのか:葬送の思想史の問題

1988年、大学3年の春、私は母方の祖母の故郷巡りの旅に荷物持ちとして同行した。祖母は石川県金沢近郊の野々市の大地主の末娘で、若い頃に実家が破産したために上京して裁縫教師となったが、ほどなく異郷の兵庫県姫路市出身(生まれたのは福岡県北九州市)の会社員の妻となり、私の母を真ん中に三姉妹を育てた。夫の三回忌を済ませた後、自分が死ぬまでに思い残すことがないように、追われた故郷を訪ね歩いたのである。

実家を破産させた彼女の父(私の曾祖父)は郷土史を趣味としていて、地元の名刹、曹洞宗加賀大乗寺の歴史を調べていた。その縁から、今も大乗寺の山門の傍らに曾祖父の小さな句碑が建っている。旅行の際も祖母と叔母と私は大乗寺を訪ねた。私たちは丁重に招じられて住職と面会した。住職は一見してエラそうな人で、最初は忙しい政治家が地元の陳情団に会うような形式的な応対だった。ところが叔母が私が東大文学部の学生だと紹介したとたん、目をキラリとさせて「ワシは東北大の宗教学じゃ」と言った。私はたまたま知っていたので「堀一郎先生がいらっしゃったところでしょうか」と返したら、ツボにはまったらしくご機嫌になって色々話し始めて、予定の面談時間を過ぎてしまった。この住職が後に曹洞宗のトップとなった偉い(エラそうではなく)坊さんだったことを知ったのはずっと後のことである。

東北大学教授佐藤弘夫氏の『人は死んだらどこへ行けばいいのか』(興山舎)を読みながら、そうした昔をふと思い出した。なせかというと、かなり後半になって言及するものの、この本には柳田国男『先祖の話』の影響がほとんどない、いや避けていると言っていいくらいだからだ。先述の堀一郎は柳田の女婿で、柳田はこの秀才の学問にかなり不満があったらしい。弟子の千葉徳爾がそうした愚痴を書き留めている。とにもかくにも、そうしたことからこの本の柳田忌避が面白いなと思ったのである。

内容としても柳田忌避は徹底している。自分のイエの墓の話から書き始めるのだが、彼の先祖は在郷領主で、墓は「かつての領地だった村を見下ろす高台の中腹に」あるという。柳田が聞いたら直ちにムッとするにちがいない。以降も基本は寺や霊場の話で(月刊『住職』の連載ということもあろうが)、ムラの墓はほとんど出てこない。そうした「上から目線」にあの住職を思い出したのだ。史実とは違っていたかもしれないが、私は柳田民俗学はそうした「上から目線」との一生かけての闘いの記録だったのだと思う。

だいたい「死んだらどこへ行けばいいでしょう」なんて実に近代的な問いの立て方だ。私の父方の祖父は、盆参りのたび幼い私を郷里の山に連れて行った。だから彼が死んだとき、私は彼が神戸の寺の中筋家の墓碑にでなく、あの山の上に帰ったことを実感したのである。昔の人は自分が死んだらどこに行くか、皆知っていたはずだ。

私にムラはなく信仰もない。でも私はそのことから死後を恐れることもないし、迷うこともない。近代人である私にはもう見えないが、私の行く場所はきっと決まっている。問題はそこに行くまでにどう生きるかなのではないか。

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つまらない顔をしてガマンしている女の子について:岸田劉生再見

ブリジストン美術館改メアーティゾン美術館(斯界ではゾン美というらしい・・・笑)の企画展を回っていたら、この絵に出くわした。昔子どもたちが幼い頃に刈谷市美術館で見た記憶がある。つまらなそうな顔をしてガマンしてモデルを務める麗子ちゃん。あの日本近代洋画史上の最高傑作「麗子微笑」のバリエーションだ。

最初に見たときは、自分が父親になったばかりだったので、劉生の目を自分ごととして体験できるうれしさに浸ったものだ。「麗子微笑」だって、父親にならなきゃその真の価値は分からない、なんて自惚れたもしたのである。

しかし子どもたちがほぼ大人になった今、見る私の心は苦い。結局子どもたちは私の父親幻想にこんな顔しながら付き合ってきただけなのではないだろうか。それはある種の児童虐待、性暴力ではなかったろうか。

むしろ私が子育てに無関心か、逆に動物のように自然に子育てできる人間だったら、そうはならなかったろう。自らの生の限界に怯え、生の象徴たる娘を描き取ることで生を味わい尽くそうとする劉生とはちがい、ちっぽけなプライド、あるいは自分の父親への反感でしかなかったけれども、自分の道具にしてしまった時点でその関わりは理不尽な暴力と言うほかない。

実際の麗子さんは立派に大人になられて、子どもの頃に亡くなった父親を冷静かつ思慕を込めて語っておられる。私の子どもたちも、いつかみじめな父親の暴力の記憶を静かに心の引き出しに片付けてくれることを祈りたい。

 

 

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住民運動の論理:映画『下北沢できる それから』を見る

都市社会学で下北沢と言えば、三浦倫平さんの『「共生」の都市社会学』(2016,新曜社)がよく知られているが、はじめて見たこの映画は、何より100%ニタガイカモンな映画だった。映像を社会学の言葉に置き換えれば即『住民運動の論理』になるのである。

似田貝香門先生は私の博士後期課程2年から博士学位取得、修了までの指導教官である。私たち夫婦の仲人でもあるから、恩師と言っていい。ただ私の不徳の致すところでだんだん仲が険悪になり、一度は今どき珍しい破門までされ、謙遜でいうのではない不肖の弟子となってしまった。

似田貝先生の若い頃の偉大な業績は『住民運動の論理』(1976,学陽書房)である。松原治郎先生との共編著で、松原先生の教育社会学のお弟子さんたちとの(似田貝先生は社会学)共同研究ではあるが、理論的にも組織的にも先生が中心だった。なかでも世田谷区丹菱ショッピングセンター反対運動の研究を、私は何度指導に使ったかわからない。社会運動研究の最高のお手本である。

似田貝先生の若い頃の業績と言えば、もう1つ「社会調査の曲がり角―住民運動調査後の覚え書き」(1974,『UP』24)がよく知られている。これは『論理』と別に言及されることが多いが、副題にある通りぜったい切り離せない。要は「社会運動(今風の言葉でいうなら当事者)の側に立たない社会運動調査はあり得ない」という趣旨である。その立場に立ってはじめて、社会運動の発展的展開(多様な連携の形成と政治・行政への接続)のプロセスを描き出す視野が開かれるのである。

なお1つ私の好きな業績に「住民運動と自由業者」(1978,『都市問題』69(9))がある。住民運動の推進力であり、また他の社会勢力とのハブになるのは、都市ならではのさまざまな自由業者だという趣旨。映画の大部分を占めるミュージシャン、アーティストたちがまさにそれだ。

目の前に映し出される、小田急線下北沢駅地下化に伴う道路計画反対運動は、まさに似田貝先生の図式通りに進んでいく。私は毎夜のように研究室に呼び出され、マンツーマンで指導された日々を思い出さないではいられない。当時似田貝先生は科研費の大規模な研究集団を率いて東京都を調査していた。私は玉野和志先生や樽本英樹先生とともに世田谷区を担当していたので、目の前の映像の構造的背景もある程度理解できるのである。ただしこの調査は阪神淡路大震災が起こって(そちらに注力するために)中止され、先生はあちこちで「弟子が怠慢かつ傲慢なために失敗した」と嘆かれた。失敗させた弟子とは他でもない私のことである。

しかし見終わってあらためて思う。私が社会学というツールを通して見たいこと、考えたいことはこの映画のようではなかった。似田貝先生のように、最初から最後まで運動側に立つという選択をしない立場から見えてくること、考えられることが、私の社会学だった。似田貝先生は私によく「君の社会学は道楽だ」と言われたが、まったくその通り、しかしそうでしか私は私であることができない。

優れた先達でありていねいな先生であった(もちろんご健在である)先生の学恩を噛み締めながら、私は深夜の帰途に就いたのだった・・・京王線が人身事故で不通、中央線周りで久しぶりに午前様になってしまった!

https://k2-cinema.com/event/title/38

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駒場と本郷:FB上のやりとりに触発されて

先日私の関係するFB上で、ある方が「本郷の社会学と駒場の相関社会科学はちがう」と書かれたところ、別の方が「そんなことは外からは分からない、東大中心主義の考え方だ」と批判された。そのことにずっと引っかかっている。

私を含め東大出の多くが東大中心主義に無意識に染まって、世に害悪を撒き散らしていることは改めて言うまでもない。しかし研究と教育の空間としての本郷と駒場のちがいは、近代日本の学問史全体にとって些細な問題ではない。学史を研究する際これを見逃してはならないと思う。

今たまたま玉野井芳郎(経済学者と言っていいかどうか・・・)に関する論文を読んでいるのだが、玉野井が宇野弘蔵に学んだ母校東北大学から駒場に招かれたのは1951年、つまり一高が駒場になったときである。木村健康と矢内原忠雄が駒場の経済学を本郷のそれではない何かにしようとした、その第一の担い手として招かれたのにちがいない。そこから「中沢問題」で事実上崩壊するまでの間、駒場の経済学は本郷とは異なる展開を見せたと思う。もっともそれが矢内原と木村の希望通りであったかどうかは分からないが。

そこがやがて本郷に進学し、官僚や企業人などの支配層になっていく人びとの通過点であったこと、(事実上)彼らが最初に(で最後かも・・・苦笑)学問なるものに対面する場所であったことも、ブルデュー的な意味で正確に評価、批判しなければならない点であると思う。それはゼミ選びですら就活でしかない本郷とはやはりちがうのである。

故見田宗介先生の社会学が、文系より理系の学生に人気があったのも、駒場ならではの現象だっただろう。

私自身は駒場寮に棲息したにもかかわらずその雰囲気に馴染めず、駒場の文化人類学科に進みたかったのに点数が足りなくて叶わないことが分かった後はひたすら本郷への脱出を心待ちにしていた。でも、あの空間が何だったのか考えることは、老人の懐古趣味を超えた意味があると思っている。

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ご隠居休みの日に怒る:日曜朝刊の記事から

日曜の朝から新聞読んでプンスカするなんて、まるで隠居した因業爺じゃないか、と思いつつやはりプンスカしている。朝日新聞26日朝刊教育面「社会人の『学び直し』今こそ」、うちは21年前からやってるよ!。伝聞で第一の波が2011年だったと書いているが、うちはその頃にはもう低迷していた。2001年の開業後数年間は30人の定員(大学院で一学年で!)に50人以上応募があったのだ。

だいたい大学院は「学び直し」じゃないし。学び直しだと思ってくる人は受からないし、受かっても後が続かない。だいたい学部の勉強だって遊んでばっかりでサッパリだったでしょ、オバサン、オジサン。いや、それでよかったんですよ、バブル崩壊までは。その後はバイトが忙しくて授業に出られない学生と、学力的に大学は無理な学生が激増。それでも私大の営業上卒業させるから、学び直し(学びはじめ?)もいいことかもしれない。でも、それなら学部だ。大学院はムリ。だいたい卒業論文も書いたことないのに、どうやって2年間で修士論文書くんだよ。

いっとき社会人大学院のヒロインだった菊池桃子さんの指導教員で、かつて私たちのボスだった元中労委委員長の諏訪康雄先生に話を聞きに行けばいいんだよ。諏訪先生なら先進社会における大学教育の再構築について労働の観点から日が暮れるまで語ってくれるよ、きっと。

こんなアホなことに21年間も心血注いで、えらい損したわ。

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