私のオンライン授業:動画は使いません

ヤクザと警察がグルになって扉の外でスゴんでいるような、持病のうつのせいか、そんな気がする近頃の世情。にもかかわらず相変わらず自分流のオンライン授業を続けている。

春学期のはじめには動画をアップする環境が整わないと言われ、また双方向性を確保しろと言われたので、どの大学にもあるだろう「学習支援システム」の掲示板機能を使って書き込みで授業をはじめた。pdfファイルにしたレジュメと10分程度の音声ファイルを2~3本視聴してもらい、それについて補足説明を書き込み、質問や意見も書き込んでもらう。そんな原始的なやり方で、と笑われるだろうが、意外にもリアルな講義より質問や意見が出やすかった。ただ一斉に質問が来ると授業の進行が乱れる。100分間の授業で質問や意見の書き込み数は4~6くらいだが、私の返信や補足説明を合わせると書き込み数100に達することがしばしばある。1分1書き込み。こうなるとほとんどしゃべくり漫才状態だ。結果、他の授業の音声ファイルを間違ってアップして、さらにクレームの一斉書き込みが・・・。

社会調査士という資格があって、最初はやる気で取り組んでいたのだけれど、今は馬鹿馬鹿しくて一日も早くやめたい。でも色々なしがらみからC科目というのを担当している。受講者数400、まあつないでいるのは50くらいですけどね。これが前半はさまざまな社会調査データとくに公的統計(昔の政府統計)を読む基礎を教えろ、後半は平均からピアソンの積率相関係数まで統計学の基礎を教えろという、不細工なキメラのような内容で、はなはだ教えにくい。こんな科目を考案したヤツの気が知れないし、教わる方は本当に気の毒だ。

しかしいいこともある。4回目まで済んだところで学生たちの書き込みを読み直してみると、実に興味深い。彼女ら彼らが引っかかっている論点は、「事実」と「客観性」の2つである。私が事実は多元的だとか主観も研究対象だとか言うので彼女ら彼らは混乱し、科学がそれでいいのですか、と反応してくる。このやりとりの先にあるのは社会調査法などではなく、科学論、科学哲学の核心であって、チンケな社会学者のとても務まるところではない。だが、残念ながらわが学部には哲学の専任教員はいないので(この犯罪的人事の片棒を担いだのは他ならぬ私だ)、何とか私なりの答えを用意しなければならない。私が用意できるネタは、柳田国男『不幸なる芸術』とか林知己夫『調査の科学』とか、その程度である。

でも、こんな貧困な授業を通しても、学生たちが人間の思想としての科学って何だろう、と疑問に思ってくれれば、それほどうれしいことはない。ヤクザと警察に恐怖しながらも、そこに微かな希望を見出したいと思う。

 

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長い墓標の列 続

先便で「図書館で借りて読もう」と記した福田善之「長い墓標の列」(『現代日本戯曲大系4』1971,三一書房)を借りてきた。ついでに登場人物のモデルの1人である木村健康の回想録『東大 嵐の中の四十年』(1970,春秋社)も借りてきた。

木村は大河内の弟弟子で、平賀粛学のなか大河内、安井拓磨とともに助手を辞めたが、兄弟子二人はたちまち復職したので、木村のみ河合に殉じたことになる。ところが安倍能成が一高教授に拾い、戦後は経済学部に復帰する一方、矢内原忠雄の片腕として兼任で駒場の大学院の基礎を作り上げた。文章が非常にどっしりしていて、ああ、昔の先生だなと思う。我らが福武直とはトシも1回り上だけれど、秀才のケタが1つ違う感じだ。

「長い墓標の列」は1957年にぶどうの会が初演し、演出は若き竹内敏晴だった。神戸高校で樺美智子の親友だったのに終生ノンポリだった亡父が取り上げたのが頷けるほど、大衆演劇のようなセンチメンタリズムに満ちた戯曲である。ウィキで調べると、福田善之はウルトラマンやウルトラセブンに博士役で出ていたそうだ。覚えてないな。もっともセブンは有名なお蔵入りの回(第12話)だったそうだけれど。

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長い墓標の列のはて:最近のできごとに触発されて

演劇青年で、早稲田で学んで演出家になりたかった亡父は(成功していたら別役実や山崎正和のようになっていただろうか)、神戸大学演劇部の卒業公演で福田善之作「長い墓標の列」を演出した。子どもの頃アルバムに挟んであったパンフレットを見つけて、その題の恐ろしさに身震いした。しかし読んでみると中身は違っていて、いわゆる「平賀粛学」に題材をとり、東大を辞職した河合栄治郎と門下生たちの葛藤を描いた作品だった。父によれば一番弟子なのに師匠を裏切って復職する大河内一男との葛藤が見せ場らしい。しかし子供の私には河合栄治郎も大河内一男もどんな人か分からなかった。ただ、昔の東大の先生というのは演劇になるほどドラマチックな人々だったんだなと感心したことを覚えている。

この仕事に就いてからしばたく経って、隅谷三喜男の回顧録だったか、弟子たちとの座談会だったかを目にしたことがあった。それ以外のところでは実に闊達で率直な隅谷なのに、師匠の大河内を語るところだけは逡巡し、曖昧にぼやかしていた。というか混乱していた。それまで勝手に闊達で率直な隅谷の学問を尊敬していた私は、かなり鼻白んだ。

今私が書きたいのは、河合や大河内や隅谷らの個人のことではない。かれらを葛藤させ、裏切らせ、逡巡させ、混乱させるものについてである。先に自分の業界について小さな研究会で報告したけれども、その点をあまり掘り下げられず、聴衆の共感も得られなかった。

最近のできごとで、私のSNSの画面は一色に塗りつぶされてるようだ。その画面を眺めながら、私はなぜか「長い墓標の列」という言葉を思い出している。「長い墓標の列」、実演で観ることは恐らく不可能だろうから、図書館で借りてきて読むことにしよう。

 

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37年前の東尋坊

仕事で福井県を調べていて、ふと37年前、高校2年生の夏に訪れた民宿が今もやっているか調べてみた。小さな漁港に面した小さな民宿だったから、とうの昔に閉めただろうと思ったが意外や意外、きれいなホームページを出して、しっかりやっているようだ。

http://newisoya.com/

高校2年の夏、友人たちと北陸を巡った。朝早く大阪駅を出て、特急雷鳥号の食堂車で朝食をとり、福井駅で下りて京福電車で永平寺へ。まだ梅雨が明けていなくて土砂降りの中路線バスで東尋坊へ移動。東尋坊では小やみになったが風が強くて、とても岩の先まではいけなかった。そこから越前松島の民宿まで1時間くらいだったろうか、吹き降りの崖上の道を歩いた。

冷え切って着いた宿は何の特徴もない畳部屋だったが、すぐにあつあつの風呂を沸かしてくれて、夕食は美味しい魚をたくさん出してくれて、高校生の貧乏旅行には過分なもてなしだった。だから今でも覚えている。今もきっといい宿にちがいない。

この民宿、交通公社の時刻表の巻末の広告で見つけのだと思う。葉書で申し込んで為替で予約金を送ったと思う。今どきのネット予約、電子決済との落差よ。

 

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福武直の選択:ワークショップ発表の宣伝

26日にこんな発表をするので、宣伝です。お暇なら来てよネ。

http://gjs.ioc.u-tokyo.ac.jp/ja/events/post/20200926_Tokyo_school

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魅力的な書名:自宅の本棚から

考えに詰まって、ぼんやりと本棚を眺める。病気をした後自宅の本を大幅に減らしたので、限られた数しか置いていない。そのなかにある魅力的な書名の本、若林幹夫・立岩真也・佐藤俊樹編『社会が現れるとき』(2018,東京大学出版会)、駒場の山本泰先生のご退職を記念した論文集である。

人によりけりだろうが、突然社会というモノが目の前に現れてくるときが、私の人生の時々にあったし、最近などはもう自分の周りは社会だけのような気がしている。社会、こんな定義を社会学者がしてはいけないが、自分の力や考えではどうにもならないもののことだ。だから、この本の背表紙を見る度に、ハッとさせられるのだ。どなたがこの題を撰んだのだろう。山本先生とは思えない。やはり編者の若林幹夫先生だろうか。

私は修士1年の1年間だけ、山本ゼミにお世話になっただけだ。その時の教室の常連は、この本の編者以外は、共著者のなかにいない田崎英明先生と市野川容孝先生だったように覚えている。年度末に山本先生がアメリカに行かれることになり、若林先生と佐藤先生が、ゼミの後で先生を呼び出して送別会をされた。たまたま私もご一緒させてもらった。その後山本先生とは助手時代に一度駒場の研究室から助手室に業務上の電話をいただいたきりだ。もっとまじめに習うことがあったかもしれない。が、当時に私にはそうした知恵はなかった。

大学の研究室の本棚にある、もう1冊の魅力的な書名の本は、色川大吉『歴史家の嘘と夢』朝日選書。見る度にいい題だなと思う。歴史は嘘でも夢でもないし、歴史家はそう語ってはならない。でも嘘と夢の間に歴史はある。そんな意味なのだと思う。社会もまた同じかも知れない。

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夏休みの自由研究:農業県あいちをめぐる

この間家族でとくに目的もなく近郊をドライブしたとき、三河高原牧場というところでソフトクリームを食べた。豊田市街から30分くらい、高原とはオーバーだが、たしかにもうツクツクボウシが鳴いている。ところで何の牧場なの?ここ。

後で調べると、県の施設で肉用和牛の受精卵を供給しているそうである(だからソフトクリームはスジャータ・・・名古屋メシの1つ)。そういえば東名岡崎インターの近くにも牧場があったな・・・。そちらは種豚だそうである。さらに安城市の三河安城駅の近くには県営の種鶏場もあるそうだ。

えっ、鶏は名古屋コーチンだから市内でしょう。うちの近くの市の農業センターで、一時卵用になって痩せてしまった名古屋コーチンを肉用に復活させたって、子どもたちが学校で習ってたよ。でも政令市とはいえ農政は県の主管だから、県に種鶏場があるわけです。

ところが、さらに調べると、岡崎市の山中に国営の種鶏場もあるじゃないですか。今は例によって独法ですが、元は1928年頃に全国に4箇所(他は埼玉、兵庫、熊本)設営された伝統ある国の施設の1つだそうです。ああ、こうした網の目のような組織が農業県あいちを支えてきたのですね。

でこの話のオチですが、豊田、安城、岡崎といった西三河地方を地盤とする、われらが大村秀章知事は元農水官僚なのでした。

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編集者Tさんのこと:最近読んだ本から

先便で書いた連れ合いとの「功利主義」をめぐる論争、向こうは忘れてもこちらはしつこいので、地元の図書館で『功利主義は生き残るか』(松嶋敦茂、2005,勁草書房)という本を借りてきて読んでいる。私には実に分かりやすくてよい本だ。おまけに、昔盛山和夫ゼミで読んだ本に出てきたハーサニという人が、ほんとうはハルシャーニという亡命ハンガリー人であることをはじめて教えられた。彼がナッシュと一緒にノーベル経済学賞を獲った1994年には、私はすでに盛山ゼミを卒業していて忘却の彼方。

あとがきまで読み進めてハッとした。担当編集者がTさんだという。Tさんと私はちょっとだけ付き合いがあった。それこそ1994年、私がはじめて専修大学で教養科目の社会学を担当させてもらうようになったある日のこと、彼は突然講師室に現れた。勁草書房ではなく八千代出版だったと思う。「先生のシラバスを読みました。『社会学は可能性の人間学である』という言葉に感銘を受けました。一緒に教科書を作りませんか」。私は若くて野心にあふれていたので、二つ返事で承諾した。松島静雄・中野卓『日本社会要論』(1958,東大出版会)をお手本に、連れ合いと二人で書く案をすぐに提出した。あっという間に出せそうな勢いだった。ところが・・・。

私の人生は急にダッチロールしはじめ、職場も教科書を使って社会学一般を教えるようなところではなくなってしまった。いや、それは言い訳だ。教科書を書くだけの心の余裕も勉強の余力もなくなっていったのだ。Tさんはそれでも何度か督促してくれたし、それ以外にも彼の転職を含め、何度か他の企画の相談に応じた記憶がある。しかし勁草書房に移った後、彼はどんどん有名になり、それと反比例して私との付き合いは薄くなった。すると「あなたと付き合っても利益がない」というようなことを言われて、怒るどころか、全くその通りだと思って肯いたら、それっきり連絡がなくなった。その後、理由は分からないが彼は勁草書房をやめ、私たちの業界から姿を消した。手広くやっていたから、事情をご存じの方もいるかも知れないが、私は知らないし、もはや知りたいとも思わない。

でもTさん、今どうしているのだろう。元気にしているのだろうか。教科書案、省みればあまりに内容が前世紀的過ぎて、とても売れそうになかった。色んな意味で、悪かったなと思う。

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家族で働き、食べることの難しさ:昨日の続報

昨日のケーキ屋、一口食べて残念な結果だった。スポンジがスポンジでしかない(バターが入っていないということ)。子どもは「元の人たち、どこかで元気でやっているといいね」とポツンと言う。

近頃このパターンが多い。行きつけのスーパーの近くに若い夫婦でやっているパン屋を見つけて贔屓にしていたのだが、ある日閉店の予告が。聞くと、とてもこの値段でこの味を出してはやっていけないと言う。「東京で1斤何百円も取る店とは違うんです」と主人は吐き捨てるように言った。小さな子どもが2人もいて、これからどうするんだろう。

前に書いた、元々近所のスパゲッティ屋だったのが、ナゴヤ都心でジビエのリストランテを新規開業した店。主人のさばくジビエだけでなく、奥さんのドルチェが秀逸だったが、ある時その奥さんが店から消え、主人のワンオペになって店の雰囲気が暗くなり、そして今春閉店してしまった。ときどき手伝っていた娘さんは大学生だったが、あの家族はどこへ行ったのだろう。

これもナゴヤ都心のビストロ、フランス人の主人が日本化されていない料理を出して楽しみだったが、今春閉店した。ちょっと疲れた感じの日本人の奥さんと店内ではしゃぎ回っていた幼い女の子はどこへ行ったのだろう。

最近通りすがりに訪れたサンドイッチ店、コロナにもかかわらず割合繁昌していたが、サンドイッチを作るお父さんとお母さん、レジとフロアにたつ大学生の娘たち、明らかに動きがバラバラだった。とくにお父さんの空転ぶりが気になって、味が分からなかった。いや、味も空転していた。

家族で仲良く力を合わせて働いて食べていく。結局それは幻想なのかも知れない。とくに職種がお父さんの夢であった場合、家族が付き合い続けるのには無理がある。やっぱりお父さんは外で勝手に働いた方がいいのだろうか。あるいはお父さんの夢ではなく、家族で合意して働ける仕事を見出すべきなのか。今の私には否定的な答えしか見出せない。

 

 

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ケーキ屋に領収書を書かせる土地柄:新装開店のケーキ屋にならぶ

近所のケーキ屋が2ヶ月ほど病気休業していて、再開するというので開店セールの行列に並んでみた。痩せた茶髪でイケメンの主人はピエール・エルメを尊敬しているらしく、ルセット本が店内に飾ってあり、レパートリーもその思いがこもっていたので好感を持っていたのだが、新装開店の店に彼の姿はなく、レパートリーも全く違うものになっていた。どうも別の人に譲ったらしい。よく見ると店の名前も値段も1段格落ちしていた。

並んでいると、ナゴヤならではの風景を見ることになる。クルマを店の前に止め、10個も20個も買いあさり、挙げ句に領収書を書かせる。ケータイで近所の有名な中華料理店Hに「予約の時間より遅れるから」と大声で電話。3世代2家族くらいでランチらしい。コロナってどこの国のこと?

昔ナゴヤに越してきたばかりの頃、こことは別のケーキ屋で、前のお爺さんの客が「孫の誕生日でね」とケーキを買っていて微笑ましく思っていたら、「じゃ、領収書書いといて」と言うのでズッこけた記憶がある。孫の誕生日は経費じゃないだろう。それ以来、この土地にケーキ屋は育たないというのが私の独断的持論で、しょうがないので自分で焼いてきたのである。

 

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