探検する精神に出合う:岩波新書『ナンセン伝』を読む

自分の学問をグローバルにしたくて、少しずつ素人勉強を重ねている。今「難民」を調べているのだが、その途上で「ナンセン・パスポート」という史実に突き当たった。第1次世界大戦後、ソ連からたくさん流出した難民に、国際連盟から高等弁務官に任じられた探検家F.ナンセンが与えたパスポートのことで、後にノーベル平和賞が授けられた。

そこで私は複雑な気持ちになった。というのは、ナンセンには少年時代の嫌な思い出がつきまとっているからである。小学校4年生の頃、私は祖父の書架にあったスヴェン・へディン全集にはまっていた。ほとんどすべて忘れたが、当時は覚えるくらい繰り返し読んだのだ。ところが、次の年、同級生の1人が『ナンセン伝』の読書感想文で、全国レベルの賞を受賞した。私はへディンにはまっていたのにナンセンを知らず、また作文なら自分が一番だと思っていたので、プライドをひどく傷つけられた。他の同級生たちは、彼の作文は親が書いたと噂していた。なぜなら、小学校5年生が『ナンセン伝』など読むはずがないから。その噂に、へディンにはまっていた私はさらに動揺した。それで機会をみつけてその同級生を捉まえ、どうしたかは忘れたが、とにかく卑怯な手段で侮辱した。そのときはそれで憂さを晴らせたのだろう。同級生の泣き面や自分の卑怯さは忘れてしまったが、嫌な気持ちだけはずっと残った。だからナンセンも封印してしまったのだ。

大学2年生のとき、東大駒場キャンパスの大通りで、その同級生から声をかけられた。彼は別の受験進学校から東大に進んでいたのである。向こうは表面的には懐かしそうに声をかけてくれたのだが、私には嫌な思い出を思い出すだけだった。そのうちゆっくり飲もうと言って分かれたっきり、今まで会ったことはない。今どうしているのかも知らない。

気持ちを新たに『ナンセン伝』を読もうと思ってアマゾンで検索すると、岩波新書1950年の初版以来再版されていない。大学の図書館で借りてみると、戦後すぐの新書はもうボロボロで開くのもままならず、あわてて返してアマゾンで古書を買い直したが、やはりそれもボロボロで、そうっと頁をめくって読んだ。なお、1970年頃に挿し絵が入った少年文庫版が出ているので、同級生はそれを読んだのだろう。

内容は学術的な評伝というより英雄物語で、ただ、高等弁務官としての難民支援は終わりの見えない難業であり、かつてフラム号による北極探検(極には到達しなかったが)を成功させた超人ナンセンでも、ほとんど殉職のように亡くなったようだ。感想文を親が書いたかどうかは別として、小学生頃のあの同級生が、どのような気持ちでこの出口なしの悲劇を読んだのか、あらためて聞いてみたい気がした。

こうしてナンセンは私の知識の中に入ってき、今同時代のへディン、そしてF.ボアズと並ぶ、探検と社会を征く近代精神史のモデルとして、繰り返し参照すべき対象となった。

 

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もう1つの『坂の上の雲』:2人の有賀の故郷を訪ねて

このブログ『群衆の居場所』をたまたま見つけてくださった、長野県辰野町辰野東小学校の校長先生(3月でご勇退)に招かれて、週末名古屋から日帰りで辰野町の旧朝日町を訪れた。旧朝日町、さらに古くは上伊那郡朝日村平出は、このブログで何度か言及した社会学者有賀喜左衛門(1897-1979)の故郷である。そしてこれもマニアには周知のことだろうが、戦艦大和の最後の艦長で、艦と運命をともにした有賀幸作大佐(死後特進で中将、1897-1945)の故郷でもある。写真は法性神社の前にある有賀艦長の記念碑で、碑文は有賀喜左衛門の撰、字は旧姓が同じ有賀の、画家中川紀元による。碑の有賀艦長は村びとたちの思い出に沿うように脱帽で、まなざしは実家に向けられているそうだ。

その実家は、おデエ(お大尽)様のヤマキ大津屋、有賀喜左衛門家の隣の金物屋だった。2人の有賀は喜左衛門が半年年長で、学年は1年上、同じ朝日尋常小学校、つまり今の辰野東小学校を出て、諏訪中学(現諏訪清陵高校)に進み、寄宿寮で白樺派文学を語り合った。卒業後喜左衛門は仙台の二高に、幸作は江田島の海軍兵学校に進んだのである。そして歴戦の駆逐艦乗りだった幸作は、大戦末期の艦長不足から最大巨艦大和の艦長となり、坊之岬沖に沈んだ。一方の喜左衛門は、戦争協力の過去を隠蔽したい戦後の大学界に招かれて、民主化のための学である日本農村社会学のゴッドファーザー、あるいは後見人となった。

2人の人生を思うとき、それはもう1つの『坂の上の雲』だったように思われてならない。しかしその物語は、坂の向こうの一朶の雲ををめざして駆け上っていくのではなく、その雲が雷雲で、土砂降りのなかを必死に掻き分けていくものだった。ただ、2つの物語に共通するのは、美しい故郷とそこに育まれた文化、米山俊直が「小盆地宇宙」と呼んだような、日本の地域社会のソーシャル・キャピタルである。

校長先生に導かれて、見宗寺にある2人の有賀の墓に詣でた。実は喜左衛門の墓詣りは2度目で、1度目は20年前、当時信州大学に勤めていた、同級生の数土直紀氏のシルビアに乗せてもらって、連れ合いと3人で詣でた。そのとき駐車したAコープの駐車場が、聞けば他ならぬ有賀喜左衛門の屋敷地の跡だったという。今はコンビニになっている。

校長先生のご厚意で、地域の方々や小学校の先生方とも交流できて、名物のホタルが出る前に帰ってしまったものの、充実した一日だった。

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君は東大生らしくないな:下田直春先生の思い出

学部学生の頃、親友に勧められて読んだ本を、市の図書館で借りて30年ぶりに読み直してみた。橋本治『蓮と刀』という本である。読んでいると、学部学生の頃のことが思い出されてきた。

学部3年生、社会学科に進学したての私が受講した授業のひとつが、立教大学から出講されていた下田直春先生の理論の講義だった。九州島原男児の下田先生は、毎回授業が終わると私たちを酒に誘い、楽しい交流の時間を作ってくださった。

授業で下田先生が話されたことで今覚えているのは、2つだけである。1つは、君たちが富永健一と吉田民人という日本を代表する機能主義社会学者の2人から学べるのは、すごくぜいたくなことなんだという話で、その時はそんなものか、と思ったが、今省みると確かにその通りだったと思う。もう1つは、今僕の早稲田の後輩たちが皆A.シュッツの現象学的社会学に入れこんでいるのだが、僕にはよく分からない。でも後輩たちの熱意を多として、僕も勉強していきたい、という話で、当時やっと読んで分かった本がP.L.バーガーの『社会学への招待』だった私は、これもそんなものかと思ったが、今省みると、これまた重要かつ真摯な指摘だったと思う。今もどこかで、私は下田先生を手本にしたく思っている。

その下田先生が飲み会の席で私にこう言われたことがある。「君は東大生らしくないな。君のような学生は、早く社会に出て、うちのような大学の女子学生と家庭を持った方がいい。」下田先生は真面目にそうおっしゃった。私はすぐに反論しなかったが、心の中で「それではサラリーマンの親父と変わらない人生になって、つまらない」と思っていた。それに私は典型的な非モテ男なので、先生の大学の女子学生と仲良くなることなどあり得ない、と思っていた。

結局私は大学院に進み、同じ研究科の女性と結婚した。下田先生は私たちを祝福してくださり、駆け出しの頃、何度か両方の研究上の便宜を計ってくださった。だから急逝されたとき、私たちは二人で葬儀に参列したのである。

『蓮と刀』を読むと、何とも言えない東大臭がして、うんざりする。最初に読んだときは親友の手前最後まで読んだが、今回は半分も行かないうちに投げ出してしまった。そのとき下田先生の言葉が思い出されたのである。「君は東大生らしくないな」。

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戦後日本の社会学の再度の終わり:日高六郎の訃報に接して

先便に書いたとおり、私が日高六郎を見たのはただ一回、昭和が終わった1989年の初夏、青山斎場での福武直の葬儀の場だった。一人さびしく去って行く後ろ姿に、私は感動した。あの時一度戦後日本の社会学は終わったのだろう。それから30年、もう一度戦後日本の社会学は終わったのだ。最初は政策科学の可能性が終わり、今度は運動の思想が終わった。では、それらの荒れ野の上に、どんな新しい社会学の花が咲きつつあるのだろう。

戦後50年の節目に刊行されるはずだった東大出版会の『講座社会学』の、それも社会運動の巻だから、私は日高六郎の話で始めようと思った。でも何の評価も受けなかった。日高六郎はもうそうした存在でしかないのだと、私はひとりごちた。でも、清水幾太郎がそうであったように、これから日高六郎論もいっぱい出てくるにちがいない。清水幾太郎論のときも、私のはまったく無視されたが(唯一小熊英二氏だけが資料的文献として挙げてくれている)、そうした日高六郎論にも私の議論はまったく影響を及ぼさないにちがいない。それはそれでいいので、よい日高六郎論が出るといいと思う。

副田義也先生が、北川隆吉先生を追悼する、庄司興吉編著『歴史認識と民主主義深化の社会学』(2016,東信堂)で、富永健一先生の『戦後日本の社会学』(2004,東大出版会)が日高を無視していることに噛みついている。たしかに富永先生は、清水幾太郎は取り上げたのに、日高、高橋徹、見田宗介、あるいは作田啓一といった、後世から見れば清水からつながる一本の筋に見える流れをまったく書き込んでいない。先生には先生のお考えがあったのだろうし、その真意を親しく聞いてみたい気がするけれど、やはり後世の者には困った学史である。その意味でも、よい日高六郎論が出るといいと思う。

それならお前が書けばいいだろう、って。実は今の私は日高六郎にほとんど関心を持っていない。だから書いてもロクなものにならないだろう。だから今日はただ感慨に浸るだけである。

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ソーシャルでなくコレクティヴ:私の社会学信条とリーンなベートーヴェン

「クリティカルじゃないんですか?」「うん、リフレクシブ」。先日、矢澤修次郎先生にお目にかかったときの会話である。古稀を越えても、変わらず日本の社会学のグローバル化のフロンティアで活躍される先生の、社会学信条の核心を確かめたくてした質問だった。カントやマルクス・エンゲルス(「批判的批判の批判」!)以来の「クリティカル」ではなくて、A.グールドナーを読み直すことから取り出される「リフレクシブ」は、運動のを通して、更新される「私」を捉えるための、新しい社会運動の社会学の根本概念だ。

では、私はどうだろう。もし若い人に聞かれたら・・・。「ソーシャルじゃないんですか?」「うん、コレクティヴ」。私自身も含む、身体のフラットな集合性にこだわってきた私の答えはこれである。

先日新聞に載っていた(『朝日』5月21日夕刊)諸石幸生氏の推薦文に釣られて、P.シュタンゲルとポケット・フィルハーモニック・オーケストラのベートーヴェン交響曲全集を聴いてみた。聴き始めてすぐに「?」が頭の中に広がっていく。それはC.カツァリスのリストによるピアノ編曲版を聴いたときにも、N響のテレビ中継でR.ノリントン指揮のピリオド奏法の演奏を聴いたときにも感じられなかったものだ。何が?。理由はすぐに分かった。弦楽5部がそれぞれ1人なので(9番のみもう1人増強)、ウィンドオーケストラ+弦楽四重奏といった感じで、響きが全く違うのだ。さらに木金管が皆個人的に演奏するので、バラバラ・スカスカ感がいや増す。ベートーヴェンはこんな響きを求めたのだろうか。

フルトヴェングラーやカラヤンの、弦楽5部が分厚く支える20世紀的名演奏に飽いて、こうした新しい試みが出てくるのだろうが、私には逆に、ベートーヴェンの時代にはこうしたリーンな響きしか聴けなかったとしても、彼の頭の中では20世紀につながるリッチな響きが鳴っていたのであって、だから彼の音楽は、ベルリオーズやワーグナーの誇大オーケストラ妄想を導き出したのだと思う。さらにそのリッチさは、単なる音の大きさではなく、たくさんの人が合わせて弾くこと、つまりフラットでコレクティヴな身体(群)によって生み出されるのだ。そうしたリッチさの上に乗ってはじめて、木金管のソロの個性も、アンサンブルの駆け引きも輝いてくるのだ。

21世紀の社会は、20世紀的なコレクティヴィティを精算すべきなのだろうか。みんな違ってみんないい、なのだろうか。そうではない、と社会学者としての私は思う。

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紙魚のごちそう2:ホッブズ『リヴァイアサン』初版本を名大で見る

地下鉄で駅3つだから散歩にちょうどよい距離で、。おまけに着くと割と空いているスタバがある。名古屋大学中央図書館は私たち家族にとってそうした目的地だ。

新入生歓迎企画として所蔵の稀覯本を展示しているというので、休日家族で見に出かけた。ホッブズの『リヴァイアサン』、モンテスキューの『法の精神』、ルソーの『エミール』、アダム・スミスの『国富論』、そして『百科全書』。和物では『解体新書』や『文明史論之概略』も展示されていた。

何といっても、目玉は『リヴァイアサン』だ。岩波文庫の新版のカバーにもなっている、身体が国民で組織された巨大な王の肖像は、400年前の印刷で見ると、迫力がまたひとしおである。

その頁を見られるわけではないが、『リヴァイアサン』といえば、この決めゼリフである。「人の一生は、ひとりぼっちでまずしく、きたならしくてひどい目にばかり遭い、しかも短い」、あるいはこう訳した方がいいかも「人の一生とは、孤独、貧困、腐臭、暴力、そして死」。原文(はラテン語で英訳も同時出版)は the life of man (is) solitary, poor, nasty, brutish and short. 400年前の文章とは思えない生々しさだ。

 

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紙魚のごちそう:成城大学柳田文庫を訪ねて

紙魚(シミ)のごちそうは書庫の奥にしまわれた古本である。五月晴れというよりもう盛夏といっていい土曜の快晴の朝、私は成城大学柳田文庫を訪ねて、窓のない書庫を巡り、古本を開いて満腹した。

一応目的は授業の準備で、社会調査法でB.K.マリノフスキの『西太平洋の遠洋航海者』(1922)を取り上げるとき、前からその序章が、柳田国男の『郷土生活の研究法』(1935)とそっくりなことが気になっていたので、それを確かめるために訪れた。たぶん柳田は『遠洋航海者』を読んだのだ。それもていねいに、深刻に。でも何時、どのように? 柳田はジュネーブの国際連盟に、委任統治領(いわゆる南洋群島)委員として毎年赴任していたから、そのときどこかで出たばかりの『遠洋航海者』を買って、持ち帰って、有賀喜左衛門や田辺寿利ら、雑誌『民族』同人の若者たちと読んだにちがいない。

柳田文庫はいうまでもなく柳田が生前に成城大学に寄託し、死後遺族から寄贈された彼の蔵書である。書庫は彼の書斎のならびのママに並べられているが、興味深いのは『古書類従』の棚ではなくて、洋書の棚だ。〇貴のマークが付されているのは、柳田自筆の書き込みがあるという。一緒に借り出した、E.デュルケムの『宗教生活の原初形態』もA.ラドクリフ=ブラウンの『アンダマン海島民』も、どちらも初版だが書き込みはない。読んだ形跡はあるが、それが柳田本人か、雑誌『民族』同人の若者たちかは分からない。翻って『遠洋航海者』は〇貴マーク付きで、開くとたしかに神経質な柳田の字と記号がところどころに書き込んである。ただ、驚いたことに、またうれしい誤算だったが、私が予想した章でない章に、私が予想した書き込みでない書き込みがあった。「盆」と少なくとも2ヶ所に書き込んでいたのである。クラ(『遠洋航海者』たちの交易航海の名)と盆か! 柳田は何を妄想しながら、この本を読んだのだろう。

もう1つの収穫は、W.I.トマスとF.ズナニエツキの『ポーランド農民』(1918~20)が、これも初版で収蔵されていたことだ。時間がなくて柳田が読んだかどうかを確認することはできなかったが、この、真の意味での現代社会学のはじまりの書を、柳田が押さえていたことを、私たち社会学者はもう少し反省した方がいいと思った。

次に訪れることができたときには、『社会学年報』揃と、W.ブント『民族心理学』揃を心ゆくまで味わいたい。

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ナゴヤの戦争と平和:ピースあいち「名古屋空襲と戦傷者たち」展を見る

先便で書いたように、私のなかには社会運動や運動する人に惹かれる磁石のようなものがある。昔学生大会の議長をやっていて、銀杏並木を通りかかった高校の同級生から、「そういうところ、お前のダメなところだな」と言われて30年、まだダメなままでである。

といっても運動しているわけでも、支援しているわけでもない。ただ頭と心が惹かれているだけだ。その方がいっそうダメなところかもしれない。

名古屋一社の民設民営の資料館「ピースあいち」の、民間戦災者補償運動の中心だった故杉山千佐子さんを偲ぶ「名古屋空襲と戦傷者たち」展を見に行った。私が杉山さんの運動を知ったのは、ひとえに朝日新聞の名古屋支局で、戦争史の調査報道記事を次々と挙げてきた伊藤智章記者のおかげである。この展覧会も伊藤記者の案内記事で知った。

小さな2つの展示室に簡潔にまとめられた展示は、分かりやすい。前半は数次にわたる名古屋空襲の特徴と、杉山さんがそこでどのように被災したかがまとめられている。米軍の政治的・軍事的都合によって炸裂弾中心の爆撃となった結果、杉山さんは防空壕で押しつぶされ、顔を傷つけられたのだ。後半は杉山さんの補償運動がまとめられていたが、そちらは展示量の限界でごく簡単なものだった。詳しくは伊藤記者の連載記事、「救われず71年」(2017年1月、朝日新聞)で補足するとして、しかし最後に展示された杉山さん自筆の手紙が鬼気迫るものだった。運動を続けるために高齢者施設に入りたくない、と訴える手紙は、世界と戦い続ける気迫に満ちていた。

資料館を後にして思った。『風立ちぬ』なんて映画は、だからでたらめで、ちゃんちゃらおかしいのだ。

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支配の社会学1:朝日5月9日朝刊13面インタビュー記事より

朝日新聞2018年5月19日朝刊13版13面に、元北海道拓殖銀行頭取のインタビュー記事が掲載されている。拓銀破綻の責任を問われ、特別背任罪で1年7ヶ月服役した人である。全体に非常に興味深い話で、聞き手の日浦統記者のまとめもすっきりしていて、ぜひ完全版、単著で読みたい話だった。専門柄、善く生き、社会に貢献した人の話を読むことが多いが、善く生きられず、社会から罪を負わされた人の話の方が、社会というバケモノが露わになっていることが多いように思う。

なかでも私に響いたのは、日浦記者が付けたのであろう見出し「都銀のプライドと淡い国のへの期待、国策の標的に」である。話の要約そのままだが、読んだとき私の頭には「支配の社会学」という言葉が浮かんだ。これは、M.ウェーバー『経済と社会』(1922、ただし死後刊行)の第9章分冊の題名であり、この膨大な教科書(!)の中心概念といえるものである。ウェーバーの造語で、もっとも世に広まった「カリスマ」も、支配の一類型として定義されているのだ。

私には「自己のプライドと、淡い他者への期待が、支配の標的に」と聞こえたのである。プライドと期待がなければ他者と自己との関係は単なる暴力的隷属である。関係が支配であるのは、自己がそこに積極的かつ主観的な意味を見出していて、だからこそそこに、自己の意味とはまったく異なる次元の目的を持った(だから、自己の主観的視点からはけっして認識できない)社会がつけ込んでくるからなのだ。

まだ思考の出発点に過ぎず、考えるべきことはたくさんあるけれども、とりあえずの結論としては、「支配されないためにできることは、プライドと期待を持たないことである」と言えるだろう。私はそれこそ「自由に生きる」ということだと思っている。

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心理学や社会学が生まれた頃:『UP』掲載の渡辺茂氏のエッセイを読む

ゴールデンウィークも後半なので、遊びはほどほどにして、たまった勉強を片付けよう。東大出版会の広報誌『UP』の3月号(積ん読過ぎ!)掲載の、渡邉茂「獨逸実験心理学の栄光とハンスの没落」を読んでみた。冒頭でビックリ、「マックス・ウェーバーは変化が感知できる刺激の強さはもともとの刺激の強さと比例することを発見し・・・」。そうか、ウェーバー=フェヒナーの法則はM.ウェーバーの隠れた業績だったのか。んな訳ない。マックスより1世紀近く前の解剖学者エルンスト・ウェーバーです。慶應大名誉教授の渡邉先生はかなりご高齢のようで、また理系の先生にはこうした正確さを軽んじる方が多いので、問題は『UP』の編集者だろう。先便で文化人類学者A.クローバーをクロエバーと書いた岩波新書編集部を腐したが、今度は東大出版会か・・・。いまどきの編集者の仕事っていったい何?

もっともエッセイ自体は比較的面白かった。とくに「獨逸実験心理学」のみならず近代的心理学の父であるW.ブントを、前史と後史も含めて紹介しているところが興味深い。ライプチヒ大学の学統は、E.ウェーバーが解剖学、G.フェヒナーが物理学、ブントが哲学教授の順である。ブントは初の心理学教室を開設したものの、終生講座は哲学だったそうだ。ちょうど教育学講座から逃れられなかったE.デュルケムに似ている。ところがエッセイの後半には、ベルリン大学「心理学」教授C.シュトンプの名が1904年の日付とともに出てくる。つまり心理学や社会学は、ブントのような偉大な先達のおかげで、20世紀初頭やっと1つの講座、学科として自立できたのである。その際どこを通って、どこからどのように自立したのか、興味は尽きない。

M.ウェーバーはもちろん心理学者ではなかったが、彼の聖典「理解社会学のカテゴリー」(1913)は、冒頭で社会学を法学と心理学から分離しようと苦心している(ここが後の「社会学の根本概念」(1920)とちがう点の1つ)。その時マックスの頭にあった心理学とは何だったのだろう。少なくともそれは確立された講座、学科ではなく、一緒に生まれたばかりのヒヨコ学問だったのだ。ウェーバーの学問論というと、W.ディルタイとかH.リッカートの影響をいう向きが多いけれど、ブントとはどうだったのだろう。ところがブントの研究が日本にはほとんどなくて、グローバル学者でない私にはまったく分からない。

私たちが社会調査法で順位相関係数の考案者として習うC.スピアマンも、『西太平洋の遠洋航海者』のB.マリノフスキも、ブントのところに留学したのである。フロイトだって意識しなかった訳はないだろう。ブント、どんな人だったのだろう。勉強しなければ。

ついでに、アメリカ文化人類学の父F.ボアズとベルリン大の病理学者R.ウィルヒョウの関係も知りたいな。そういえば最近アイヌの人びと骨の標本がたくさんベルリンで見つかったというニュースを聞いたが、それはウィルヒョウのコレクションだったそうだ。

要は医学や哲学の古い地平から、20世紀の「新しい人間の学」として心理学や社会学が離陸する、その場を追体験したいのだ。

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