こそばゆい引用:清水唯一朗『近代日本の官僚』を読む

学生指導の必要があって、清水唯一朗『近代日本の官僚』(2013,中公新書)を読んだ。論旨明快、資料豊富で、たいへん勉強になる好著である。というか、昔ぼんやり考えたことが、明快かつ詳細に実現しているのを見て、うれしくなった。

昔というのは、副田義也先生が90年代に熱心に取り組まれていた大霞会の『内務省史』を読む科研費(09301007)の研究会で、私が担当した部分がこれだったのである。2000年刊行の報告書には「内務行政と議会政治」という名のささやかな論説を載せてもらったが、その後研究会から脱落してしまい(どこでもそう、私の悪い癖)、副田先生の単著『内務省の社会史』(2007,東大出版会)、研究会の共著『内務省の歴史社会学』(2010,東大出版会)のどちらにも顔を出していない。ただ副田研究室の同人誌『参加と批評』3(2009)所収の「書評セッション」の書評者として言いたいことは全部吐き出したので、私自身は晴れ晴れとした気持ちである。

ところで、参考文献まで読み進めて不思議なことに出合った、第6章の文献のうちに拙著『群衆の居場所』が挙げられているのである。第6章は拙著の研究対象である都市騒乱への言及は最小限で、引用記号もない。一方で、これも不思議なことに、副田グループの研究、文献への言及、引用は皆無なのである。あとがきを読むと、著者の研究が本格化したのは副田研究室のプロジェクトが終わった頃だから、始めた頃は知らなかったということは十分あり得るが、何でも検索できる今どき、本を出すまで知らないということはあり得ない。

私は勝手に、副田グループの研究は評価しないが、中の中筋の研究だけは多少興味を覚えた。ただその研究を中筋は公刊していないので、単著をかわりに挙げて、その興味を示したということだと理解した。それで「こそばゆい」気持ちになったのである。

でも、著者にあえて申し上げたいのは、私の研究はこれ以上深める能力がないので、放っておいていただいて、副田先生のお仕事の大きさをぜひ積極的に評価していただきたいと思うのである。先生はあの独特のお人柄と文体なので、副田社会学のユニークさは同業者でもあまり分からないのではないか。でも、戦後日本社会学の1つの到達点として、改めて再評価すべきものと、私は確信している。

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成田の空と大地:「空と大地の歴史館」をたずねて

高速バスの停留所案内が「次は三里塚です」というのを聞くと、さっと体が硬くなった。外は畑の中の道にロードサイド店が並ぶ、典型的な日本の郊外の風景だ。そこには暴力のかけらも見られないが、子供の頃の記憶のなかの「三里塚」は、「ダッカ」とか「テルアビブ」と同じ暴力の象徴なのである。

三里塚バス停を通過したバスは唐突に空港区域に行き当たる。禍々しい爪を尖らせた壁が現れるが、すぐに切れて、あとは空港が丸見えだ。昔は機動隊が並んでいたのにな、と思っているうちに、「航空科学博物館前」に着き、バスを降りた。

平日の午前に訪れる人などいまいと思っていたが、「歴史館」に着くと、スーツを着た若い男女の集団が館員の説明を受けている。空港関係会社か何かの研修だろうか。すぐに会議室に消え、館内は私1人になった。

一応「市民運動論」を担当しているが、名前を聞くだけで怖じ気づくような私に三里塚を語る資格はない。ただ尊敬する隅谷三喜男の精神に少しだけ触れたくて、ここに来たのである。歴史書などには「行司役」などと呑気なことが書かれているが、そんなものではなかったはすだ。その上、あの宇澤弘文を片腕に頼む度量(私なら絶対使いこなせない、たぶん「お前、口だけじゃないよな」という使い方、あるいは清水次郎長と森の石松)。いわゆる市民派でない(呼びかけ人とか?・・・笑)、学者の社会への関わり方の1つの「理念型」を、隅谷先生は示してくださったのだと思う。しかし、今後そんな学者がこの国に現れるだろうか?

展示を見ながら感じたのは、むしろ政府の側の感情的かつ暴力的な執拗さである。ほとんどDVだ。いや、喩えではなくて、職場で上司にいびられているお父さんが、腹いせに家でお母さんを殴っているといった風なのだ。それならそんな職場(今からでも)やめればいいのに、というのは後付けの理屈かもしれないが、私はそう思う。「ダイヤ買っちゃった」みたいな「いずも」なんかやめて。「三丁目の夕日」はほんとうはDVの血に染まっていたのだと、それをただ怖がっていた子供の私は思う。

勉強ついでに佐倉市の国立歴史民俗博物館に回って、企画展「1968年」を見た。悪いことはできないもので、こっそり勉強しようと思って行ったのに、入り口で今を時めく社会運動学者の富永京子さんとパートナーの武田俊輔さんにバッタリ。無知がバレるので、「お邪魔でしょうから」とごまかして、さっさと先に回ってしまった。企画展の方では折原先生と見田先生の意見表明のナマ「ガリ版」(笑)、常設展では「洛中洛外図屏風 歴博甲本」が眼福だった。

ところで、帰ってきて湧いた疑問。東京ディズニーランドは、なぜ京成電鉄がやらせてもらえたのだろう。

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ののちゃんのお父さんが造っている艦:朝日新聞朝刊の全面広告

今朝11月14日の朝日新聞朝刊の中程に、2面を使った全面広告を三井造船が載せている。百周年で社名を変えるというのが趣旨だが、面白いことにいしいひさいちが四コマ漫画を特別寄稿している。朝日新聞朝刊の連載漫画『ののちゃん』の舞台が「たまのの市」で、お父さんの勤め先が造船所であることは、最近ひんぱんに描かれてきたが、この特別寄稿では、彼の一族が三井造船玉野造船所で働いていることを自ら明らかにしている。ファンには自明のことかもしれないが、私は今朝はじめて、ののちゃんが彼の自画像で、『ののちゃん』が彼の家族の物語であることを知った。『がんばれタブチ君!』以来、プライベートを明かすことが少なかった彼なのに、この寄稿では全面開放していることは、やはりこの国において家族の力には抗えないことを示しているのかもしれない。

記事の中心は「さかなクン」と社長の対談記事、聞き手は女性記者となれば完全にソフトなイメージなのだが、私の目は右面下の「404」と大書されたバルバスバウの灰色の艦の進水式の写真に釘付けになった。キャプションは「造船で培った技術でさらなる発展をめざす」とあるが、本文のどこにもこの艦が何であり、どうキャプションに見合っているのか、書かれていない。そもそもこの写真は誰に向けて貼り付けられているのか。長年の愛読者ではあるけれども、私が「朝日はぜったい信用できない」と思っているのは、まさにこうした狡猾さ(卑屈さ)なのである。

ここからはウェブの出番だ。ウェブで検索すればマスメディアが頬被りしていることは全て露わになる。「404」は艤装中の新造潜水母艦(と海上自衛隊では呼ばないが)「ちよだ」で、海上自衛隊は2つの潜水艦隊に合わせて2隻の潜水母艦を持ち、さらに「いずも」など最近の巨艦ブーム(次は満載1万トン級で、名も大和、武蔵か?)で石川島播磨(今はそう言わない)に後れをとった三菱が、財閥仲間の三井と組んで受注の巻き返しを図っていると書かれている。昔の軍縮条約ではないけれど、「いずも」とちがって補助艦は私たち納税者から見えにくい。もちろん原子力でない潜水艦を持てば母艦は不可欠だ。しかし戦争を放棄した国に潜水艦は必要か。マンガじゃあるまいし・・・。

さて潜水母艦の仕事は補給と救難で、とくに深海で潰れた艦からの乗員救助は至難の業だろう。そこでもう一度広告を見直すと、海底調査の「チームクロシオ」の宣伝があった。だからキャプションは一応「軍需から民生へ」と理解してよいのかもしれない。

ののちゃんのお父さんは、小さな貨物船のの受注と資材を調達する仕事をしているようである。同僚は名前から在日朝鮮韓国人のようである。しかし、実際には軍艦を(も)造っているのだ。『ののちゃん』は、その意味でも(他にも色々あるのだが)少し悲しいファンタジーであるように、私には思われた。

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トロ字?ゲバ字?:田原牧『人間の居場所』を読む

題名に惹かれて、田原牧『人間の居場所』(集英社新書)を読んだ。同じ「居場所」でも、私の願うところとは違っていて、でもどこか共感できる内容だった。こちらの勝手な解釈を押しつけるなら、田原は社会の(マルクーゼ的な)一次元化に対抗する多様性の現存を見出そうとするが、私はそうした多様性を容れる(上野千鶴子的な)「ハコ」を(福井康貴のように)「歴史の中に」見出したかったのである。もし私のいう「群衆の居場所」が一次元化の装置でしかないのなら、田原にとって私は敵でしかないのだが・・・。

田原の好みの言い方では私は彼女より「5学年下」なので、世代的に共感できることも多かった。もちろん秋元康の創り出す集合的アイドルの世界に「夕焼けニャンニャン」以来全く興味をもてないとか、三里塚は知っていても行こうと思ったことはないとか(山谷の越年闘争も誘われたけれど行かなかった)、近い世代だけにかえってはっきりズレることもある。

相変わらず細かいことが気になるのが私の悪い癖で、一箇所、トイレの落書きが「ゲバ字」で書かれていたという表現に引っかかった。ていねいに「ガリ版による政治ビラの字体」と注書きしてある。ああ、やはり「トロ字」でなくて「ゲバ字」なのか。つい最近、職場の同僚から同じ表現を聞いたとき、私は「『トロ字』と言っていたけど」と応えた。さらに、一橋出の同僚と「大学で違うのかねえ」と言い合ったのだ。

私が先輩から聞いた説明では「トロ字」の「トロ」はトロツキストのトロだった。これは正統派(代々木、あるいはスターリニスト)から見た「蔑称」だから、投げ与えられた蔑称をあえて自称とするという、屈折した表現だ。さらに先輩の説明では、正統派は印刷工に支えられているので(『太陽のない街』のように)「ガリを切る」(ロウ(古くはニカワ)が塗られた硫酸紙を鉄筆で削って原版を作ること)必要がないが、非正統派は自分でガリを切り、謄写版を1枚1枚刷り上げるしかない。その手作り感に運動の誇りと希望を懸けているということだった。かなり神話化された説明で、直截な「ゲバ字」に比べるとちょっとモリ過ぎかなと思う。

ここまで書いてきて、パソコン用の「ゲバ字」フォントってあるのかな、と思って検索してみた。最初に出てきたのは、たしかに「ゲバ字」らしい雰囲気を出していたが、ずっと美しく、字ではなくてフォントだった。というか、手書きでなければならない「トロ字」はフォントにはなり得ないのだった。

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余は如何にして左翼とならざりし乎:久しぶりに三番大教室を訪れて

15年ぶりくらいだろうか、久しぶりに学会の司会をやることになって、母校の建物を訪れた。学部3年から助手をやめるまでつごう8年間暮らしたので、すみずみまで懐かしいけれども、今回とりわけ懐かしかったのは旧三番大教室だ。今は「三友館」と言う名前になり、受付場所として使われていた。

思わず奥に進むと、昔私が入り浸っていた文学部学生自治会室は跡形もなくて、ただ監禁部屋のような「学友会室」という小部屋があるばかりだった。私たちが学生の頃は帝国大学以来の「学友会」は名前だけになっていて、戦後生まれの「学生自治会」さえ、風前の灯火だったが、今はどうなのだろう。

いろいろなことが思い出されてくる。委員長の国語学科の友人から「中筋の考えは代々木的過ぎだ」と批判されて、「代々木的」の意味が分からず悩んだこととか、学生大会の議長を2度務めたのだけれど(本業は会計担当の常務委員)、銀杏並木で宣伝していると、通りかかった法学部に進んだ高校の同級生が「そういうところ、お前のダメなところだよ」と言うので、何がダメなのか分からず悩んだこととか。同級生の女性が「中筋君に頼まれたら、しょうがないわよね」といって「議場委任」しれくれたこととか。冤罪被害者の免田栄さんを学園祭の講演に招いたが、スライド映写機(もう死語!)がタマ(電球)切れで、品川のエルモ社(今もあるのかしら?)まで汗だくで仕入れに行ったこととか。あの、若い私はどこに行ってしまったの?

少し関わっているメーリスにベビーシッターに関する大会運営の不備を批判する発言が相次いでいて、不備自体はたしかに問題だと思う反面、そうした発言にまったく共感できない自分をさびしく思っている。何で共感できないかというと、自分たちでやる/やらないという視点がそこに見出せないからだ。若い頃、子どもたちを預けている学童保育所の運営がたいへんだと先輩の女性研究者に愚痴ったら、「私たちの頃は公営なんてなかったから(ちなみにわが学童も名古屋名物民設民営!)、夏休みなんかお母さんが交替でやって大変だったのよ」と笑われた。年配者のお説教ではあったが、「なるほど自分たちでやるという選択肢もあるんだな」と納得した。逆に、私たちは事実上「自分たちでできないものはできない」でやってきたと思う。地域も職場も手厚くなく、半別居状態で、両方の親の支援もないから、そうするしかなかった。もちろんうまく行かなかったことも多く、ある時私が家族の病気を見捨てて学会に出向いたことは、今でも私たち家族全員の心の傷になっている。

いわゆる「自己責任」で得られたもの、得られなかったもの、子どもたちの幸せ、不幸せ、色々あったろうが、今となってはただそうする他なかったというしかない。一方で、自己責任の「先」にではなく、「前」に社会を問うべきだとは、今の私には考えられないのである。

あの自治会室の時間から今までを省みながら、「余は如何にして左翼とならざりし乎」、少し考えてみたい。

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わが学部のレガシーを送る:水野節夫先生の「最終講義」

長年社会人大学院で質的分析法の講義を担当してくださった水野節夫先生が今年度いっぱいで定年退職される。そこで自分の学部の演習を休講にして、最終回だけ出席させていただいた。ちなみに副題の「最終講義」は言い過ぎで、学部の講義は1月はじめまで続く。

この講義が始まる直前、水野先生は『事例分析への挑戦―’個人’現象への事例媒介的アプローチの試み―』(2000,東信堂)を出版され、そのきわめてオリジナルな「理論と方法」を世に問われた。中野卓先生に始まる日本社会学の生活史研究の第二世代のなかで、先生の立ち位置は孤高である。他の生活史研究者は、まず語りたい対象があって、それを正しく(どちらかというと倫理的に)捉えるための方法が後から練られる。悪く言えばドロナワ式の調査法だ。しかし水野先生は、(こちらは科学的に)正しい分析を実現するために、分析法自体を対象を通して練っていくのである。ただし副題に「’個人’現象」とあるように、本当は「現代社会における個人現象の社会心理学的解明」という、きわめて高度な理論命題が先生の研究には秘められている。方法における禁欲的科学主義と、理論における現代社会の存立構造への挑戦は、水野先生が学ばれた2人の師匠、折原浩先生と見田宗介先生の嫡系である証拠だ。

ご高著ではまだ「事例媒介的アプローチ」と控えめに呼ばれていたのが、20年を経た今では「CM(Case Mediated)法」とはっきりと銘打たれている。それは水野先生が留学中に師事されたA.ストラウスの「GT法」と対照されるもので、データから理論を引き出す前のデータとの出合い、対話を整えるための方法、理論が持ち込みがちな先入見や偏見から、データとの出合い、対話を解放するための方法なのである。

具体的には、それは「なぞり、なぞり返し」と「アイデアの風船飛ばし」の2つのプロセスから成る。前者はデータに出合う調査者の先入見や偏見を洗い落とすために、何度もデータを読み返すことであり、後者もまた調査者の先入見や偏見から自由になるために、アイデアを出し続けていくことである。ちょっと勉強した者なら、この柔らかなネーミングの向こうに、S.フロイトの「自由連想法」や川喜田二郎の「KJ法」の精神を見出すことができるだろう。

先生の熱弁を聴きながら、この方法が単に科学の方法に留まらず、人間論、人間関係論でもあることに、私は深く感銘を受けていた。私たちは、他者とりわけ愛する人に出合うときに、CM法のように出合っているだろうか。自分の欲望を満足させるために、他者を都合よく利用しているだけではないのか。そう考えるとき、水野先生の方法は、限りなくE.レヴィナスの他者の哲学に接近していくように思われたのである。

しかし、である。私にはまだ異論がある。水野先生の方法は、中井久夫風に喩えていうなら、帝国海軍軍令部の図上演習のときに、当時の参謀たちのように「わが皇軍は勝つことになっているのだ」といった最低、最悪の先入見、偏見から解放されるためのものだ。しかし目前の敵艦隊に夜襲をかける水雷戦隊の司令官はそうはいかない。自分の経験、手持ちの艦隊、水兵たちの練度など様々な状況に関する自らの主観的な見通しを通してのみ、目前の戦況は理解される。そうした主観的見通し、先入見や偏見以外の方法はないのだ。もしその方法に欠陥があるのなら、味方の艦や水兵たちを喪いながら、まさに血で贖って修正していく他ないのだ。私は水野先生の科目の前座に当たる科目で、古典的研究がそうした先入見や偏見を通して生産されていくプロセスを追体験できるような演習的授業を行ってきた。それはまさに、水野先生というレガシーとの個人的対話のなかで見出してきたものである。

講義の合間の雑談で、私はなぜかJ.デリダの『歓待について』の面白さを水野先生に語っていた。私はたぶんデリダの思考に、レヴィナス水野先生に対する自分の思考を重ね合わせていたにちがいない。

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社会科学の一平民:社会学的思考の基礎3

敬愛する年長の同僚から、「社会学は問題の発見に優れ、経済学は問題の分析に優れ、法学は問題の解決に優れているのだから、そのシリーズで連携できるといいね」と言われ、なるほど「社会政策科学科」の方針としてはその通りだと思いながら、一方でそれはきわめて(近代)経済学的な思考法だな、とも思った。

社会調査法の授業で毎年「主成分分析」と「因子分析」を教えるとき、両者のちがいをどう教えるか思案してきたが、要は、前者はH.ホテリングという優れた経済学者が考案し、後者はL.サーストンという優れた心理学者が考案したものだと考えるとすっきりするということに、今年になって気がづいた。つまり「主成分分析」がそうであるように、個々の現実的な要素を組み合わせて(加重平均的に足し上げて、あるいは分業して)最適解を出す、出せるはずだというのが、私の見るところ経済学的思考なのである。

しかし、その考え方は楽観的で私は好きだけれど、別の考え方もあろうかとも思う。まさに「因子分析」的に、どの社会科学にもまだ自覚されていないより根底的な思考があり、それこそが真の解決をもたらすのだとか、あるいはそれぞれが互いの弱点を突き合っているのだから、そこを「アウフヘーベン」したところに唯一の社会科学があり、それこそが真の解決をもたらすのだとか。上記の同僚は「社会学には哲学臭があるよね」とやんわりと批判していたが、こうした考え方はまさに「哲学臭く」、高田保馬のいう「社会科学の一平民」には相応しくない。しかし、「根底」や「唯一」でなくても、互いの見え方の偏りを批判し合うことは健全であると思うし、そうした批判精神を涵養する上では、仮に、あくまで「仮に」ではあるが、「根底」や「唯一」の立場に立ってみることも有用であると思う。

問題発見にジャーナリスティックな勘のない私としては、この「総合なき批判」に社会科学の一平民としての社会学の立ち位置を見出したい。やや代々木的ではあるが・・・。

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神はわがやぐら:宗教改革500年に寄せて

10月31日はハロウィーン!ではなくて宗教改革記念日で、今年は「ヴィッテンベルクの95箇条の提題」から500年である。

たまたま目にした『カトリック生活』10月号(ドン・ボスコ社)の特集が「ルターとカトリック教会」なので、驚いた。第二回バチカン公会議以降のカトリック教会の基本的方向性を踏まえれば驚くことはないのだが(といっても共同文書まで50年かかったというし、「洗礼で1つになっている」というその共同は非キリスト者から見ると?なのだが・・・)、ルターが生きていたらどう思うだろうと想像してしまう。

この特集も含め、少なくとも私が目にするこの間のルター論は「真面目な修道士だけど頭でっかちで世間知らずなので、政治に利用された」という穏便なもので、『カトリック生活』など、「聖」アッシジのフランチェスコと「聖」イグナチオ・デ・ロヨラで挟んで、アベラールと同じく、あと一歩で聖人になれなかった残念な人、扱いだ。しかし、残念な人が500年も名前が残るだろうか(アベラールも残ったが・・・)。カール五世やフリードリヒ賢公の顔も知らなくても、クラナッハの描く(賢公が描かせた)ルターの肖像画は誰でも知っている。ルターはその位置どりではなく、ルソーやマルクスの位置どりで捉えるべきなのではないか。

さすがに、わが社会学の古典はそう取り組んできたのである。ただ、あらためて読み直してみると、あの(大塚久雄の節回しで)M.ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のルターの扱いは微妙である。1章を割いて論じるものの、あきらかにカルヴィニズムやピューリタンの前座扱い、カトリックと同列扱いである。そのこと自体がこの本を読む勘どころだと思うけれど(なぜウェーバーはこの本を書いたのか、ほんとうは何が言いたかったのか)、ルター自身について教えるところは少ない(折原先生、ごめんなさい!)。

人間ルターを鮮烈に描き出したのは、やはりE.エリクソン『青年ルター』だろう。私の見るところ、エリクソンはルターをヒトラーの隠喩として探究している。その意味で『青年ルター』はE.フロム『自由からの逃走』と対をなす研究だ。ただエリクソンがフロムでないように、この本はルターの異常性に集中しすぎ、その普遍性を捉え損なっている憾みがある。それでは、やはり500年は残らない。

普遍性の方で考えるなら、近年の歴史研究がそうであるように、作られたルター像(制作フリードリヒ賢公、演出クラナッハ!)の力を見るべきかもしれない。その意味では、ルターというキャラクターは、M.マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』と重ね合わせられる、メディア史の古典的事例なのである。伊東四朗似の例のクラナッハのルター像といい、ヴィッテンベルクの城門の場といい、ウォルムス帝国会議での「帝国追放刑」宣告の場といい、チューリンゲン森での誘拐の場といい、ヴァルトブルク城での幽閉といい、彼の人生はメディア的な要素に充ち満ちている。そしてエンドロールに鳴り響く「神はわがやぐら」(賛美歌267番)。

あいかわらずクラシック音楽が好きな私としては、大バッハ『カンタータ80番』やメンデルスゾーン『交響曲第5番 宗教改革』といった「神はわがやぐら」が鳴り響く曲も好きだけれど、今はP.ヒンデミット『交響曲 画家マチス(マチウス)』を聞きながら、これらの問題を考えてみたい。たぶん画家マチウス・グリューネヴァルトはクラナッハと違う風にルターを受け止め、そこにヒンデミットは惹かれたはずだろうから。

 

 

 

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地域社会学が役に立つとき:最高裁判事「審査公報」を見ながら

「地域社会学やめます」と何度もこのブログで言ってきたが、それでも「地域社会学は役に立つな」と思うときもあって、それは何より選挙の時だ。小選挙区制になり区割りが変わっても選挙結果は地域社会構造を何ほどか反映しているので、ほとんど「これは意外」という結果に出合わない。

いや「反映している」というのは正しくなく、本当は「反映させている」と言うべきだろう。地域社会構造を味方につけた政権与党が、自分に有利なように作った選挙制度なので(選挙制度とはそういうもの)、わざわざ全国調査しなくても選挙結果からそれぞれの地域社会構造を把握できるのである。

比例区が小選挙区と全く異なる制度設計になっていると、地域社会構造と異なる社会構造、たとえば階級とか民族といったことが露わになるはずだが、比例区は小選挙区を補完するばかりで、そうならない。

しかし、それではやはりダメなのではないか。グローバルな世界で海千山千の国々とガチでやり合っていく政府を構成するメンバーが地域社会構造の反映では・・・。やり手の社会運動家やビジネスマンを選んでいる合衆国を見習うべきではないか。

さて、今日の本題は選挙ではなくて最高裁判事の国民審査の「審査公報」である。地域社会学者の目で見ると、まず7人の対象判事のうち6人が地方出身であることが興味深い。ただし細かくみると中身は微妙で、高校まで地方(神奈川や大阪は大都市圏とみる)なのは2人だけである。1950年代生まれの彼らは、まさに「社会の全般的都市化」のただなかに育ち、「東京のエリート」への階段を上っていったのだ。

より興味深いのは2人の北海道出身者だ。1人の履歴には「自然豊かな然別、釧路、室蘭等で少年時代を過ごした後、札幌南高校に進学し」とある。これは実家が農家でも漁師でもなくて、教員か警察官ということだろう。もう1人の履歴には「赤平市で生まれ、札幌市、三笠市で過ごした後、東京に転居し」とある。これは実家が炭鉱会社の幹部社員で、炭鉱の衰退とともに東京に引き上げたということだろう。2人ともある意味では北海道らしい履歴だが、マジョリティというか庶民というか、そこは確実に外している。だからエリートになれたのだろう。

それでも、やはりこの7人は何ほどか地域社会構造とその変動を反映している。1960年代生まれの私たちの世代でも、たとえば西原理恵子の『女の子ものがたり』を読めば、地域社会構造とその変動を反映している。でもその先はどうだろう。逆に文化人類学者のアイファ・オング(王愛華?)のような、ペナン生まれ、コロンビアン大卒といったグローバルな履歴が並ぶだろうか。そうもならないだろう。きっと首都圏生まれ、育ち、大手私大卒ばかりになってしまい(1人の判事がまさにそう)、地域社会学の出番はなくなってしまうにちがない。その意味でも、やはり「地域社会学やめます」。

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偉大な「小さな楽団」を家族で聴く:S.クイケンの名古屋公演

新しいステージに進みつつある私たちの家族、その「思い出づくり」にS.クイケンとラ・ブティット・バンドの名古屋公演を聞きに行った。クラシックコンサートに家族で行くのははじめて、親たちは東京時代から20年ぶりである。もうそれだけでうれしい。

しかしそれ以上に、クイケンである。レオンハルトとアーノンクールが亡くなった今、1970年代のバロック音楽の刷新運動の凄さを伝えるのは、彼だけになってしまった。凄さというのは、バロック音楽をカラヤン・バーンスタインに代表される世界市場向けのロマン派中心の商業クラシックに対抗し得る(商業的にも)ものにしたこと、研究的な姿勢が派手なカリスマ的演出以上の感動をもたらすことを実証したことである。ただ、クイケンはそれだけではない。レオンハルトやアーノンクールにはまだ漂っている演出されたカリスマ性が彼にはない。子どもが「あの人、弾いていると一心不乱だね」と言っていたが、その等身大のたたずまいが、私には何より好ましい。

プログラムはオール・バッハで、前半が「G線上のアリア」を含むポピュラーな3曲、後半がソプラノ独唱が付いた世俗カンタータ。とくに後半の世俗カンタータがラ・プティット・バンドの真骨頂というべきアンサンブルの温和さで、これも子どもにいわせると、「楽しくて、あっという間に終わってしまった」。

クイケンは拍手に呼び出されても、つねにバンドの中にいて、最後に観客を納得させるために一人で出てきて、それで演奏会は終わった。20世紀芸術の奇蹟の1つが、こんなに慎ましやかであることに、私は心の底から感動した。

もっとも、私はもともとバロックファンではなく、ながく商業クラシック系だった。私の主治医、中学高校の同級生の友人は、小学生の頃からバロックに造詣が深く、たしか中1のとき(1980年頃)に彼の口から「オリジナル楽器」という耳慣れない言葉や「クイケン兄弟」という名前を聞いたように覚えている。ラ・プティット・バンドに至っては、はじめて聴いたのがハイドンのロンドン交響曲集のCD4枚組で、それまで退屈でしかなかったハイドンのパイオニアとしての凄さをはじめて教えられた。

ただ1つ気になったのは、会場で配られたチラシに、ラ・プティット・バンドが財政危機で、クイケン夫妻自身が事務局をやらざるを得なくなっていると書いてあったことだ。運動で始めた以上、最後も運動で終わることにたぶん本人も文句はないだろうが、70過ぎてから国際的な活動団体を運営するのはキツかろう。どうしてそんなことになってしまったのか。これは広い意味で私の専門だと思うので、考える前に支援すべきなのかもしれないが、少し考えてみたい。

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