バス問題のLast Resort(最後の手段):歩いてみました

多摩キャンパスの構造的問題の第一は「バス問題」である。橋本、めじろ台の両最寄り駅からバスで15分かかり、火曜から木曜の2限から4限の、授業が集中する時間は駅前や大学のバスターミナルに長い行列ができ、どの車両もすし詰めだ。これまでも苦痛だったがコロナ禍で一層問題が深刻になった。授業をいくら疎にしても対面でやる限りバスは密である。昨日の教授会でもこの問題で時間がかかった。同僚たちの心配はもっともと思う反面、それはバス会社の責任でしょう、とも思う。昔バス会社との交渉の仕事に関わったとき非常に冷淡に扱われたので(とくにKOバス)、こっちが配慮する必要なんかないと思う。

20年前はまだ体育が必修で、市ヶ谷の学生たちが多摩に来る日はそれはそれはたいへんだった。その時の記憶から授業の1時間前には出校する習慣がぬけない。体育が必修でなくなって楽にはなったが、多摩キャンパスの存在理由の過半は失われた。

赴任直後にめじろ台から歩けないか確かめてみたら自動車の多い上アップダウンがけっこうあって途中の団地で飽きてしまった。それ以来バスで往復していたが、ふとまた歩いてみたくなって脇道を探索し、帰りに歩いてみたらアパートまで40分かからない。これはいける。今朝は上りで45分くらい、さすがに汗びっしょりである。飽きるまで当分続けてみよう。ただ帰りは19時過ぎて暗いので、自動車の多い道が安全だろう。

脇道は谷筋の古い集落を上り、最後は丘の上の農道となる。気がつけば館町とか寺田とか湯殿とか殿入とか、まったく室町戦国時代的な地名である。今は総理と文相のペアの政党ポスターばかりが目につく。途中に圏央道からのバイパス(たぶん将来は国立まで抜ける20号線の)工事現場があるが、旧集落は高架で越えるのに団地はトンネルでくぐるのが何だか可笑しかった。

 

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2021年の栗ひろい

ちょっと慌ただしかった今年の栗ひろい。家族4人で170個拾って夕食ははじめて片手鍋で炊いた栗ご飯。まだ若い栗でしたが、美味しく炊けました。

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忘れることのない備忘録:わが家の戦争の記憶

忘れることはないけれど、改めて記そうとすると不正確な部分が多い。祖父母も父も死んだ今となっては確かめるすべがない(歴史学者のようにやればできるが)。いつか深掘りするための備忘録として。

学童疎開が始まった44年夏、国民学校2年の父は婿養子である祖父の実家に縁故疎開することになった。いつもの夏休みのように丹波今田の休場ムラを訪れた父は、叔父(祖父の次兄)に誘われて近くの山に登った。山頂からムラを見下ろすと駅に向かう道を父母が帰っていく。あっと思ったとたん叔父がぎゅっと抱きしめそうだ。

神戸の空襲が迫ってきたので、曾祖父は青物卸の商売をたたみ、自分の故郷である丹波日置の曽地口ムラに一家で疎開することを決めた、国民学校訓導である祖父は家屋を守るためもあって神戸に残された。ここから話の前後が不正確なのだが、父はまだ休場ムラにいて、ある日(45年3月17日)ムラの南の空が真っ赤に燃えるのをムラびと総出で見たという。次の日祖父の長兄と次兄は、「龍さん(彼らの末弟である祖父)の骨を拾おう」と歩いて神戸に向かった。幸い祖父は生きていた。ややホラ気味の祖父の話では、焼夷弾は放物線を描いて落ちてくるので、投下開始ポイントである海岸線の近くの町にはほとんど落ちなかったという。そのうえ、空襲が始まると祖父はその海岸線にいち早く逃げた。「先生、意気地がないな」と後々まで町の人に笑われたで、と祖父は笑っていた。

空襲の後、曾祖父は家付き娘である祖母と相談し、祖父に神戸市の教員を辞職し、兵庫県の教員に転職するよう命じた。「小糠三合」の祖父は抗わず、曽地口ムラのさらに山奥の小学校の教頭(たぶん教員が2、3人の)に転任した。「龍さんに悪いことした。あれがなければ教育委員になれたのに」と祖父の死後祖母は詫びていた。

敗戦後この疎開を撤収するのに3年近くかかり(祖父は神戸市の教員に復職した)、父は小学校を卒業する年になっていた。祖母に命じられて受験した「灘中」の面接で、教員から「何や、百姓みたいな手しとるな」と笑われてひどく傷ついた。みたいなではない、4年間百姓をやっていたのだ。結果は不合格。そんなひどい学校に息子を入れることなかったのに。

子どもの頃山奥の小さな温泉宿に家族で訪れたことがあったが、そこの主人は祖父の教え子だったそうだ。後川と書いて「しつかわ」と読む、篠山から大阪に向かう山道の途中の温泉(温泉名は籠坊温泉)である。

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憧れの海島棉スーツ:学生アルバイトの思い出

このヨレヨレのセットアップスーツは15年前のユニクロ物で、ある学会の庶務理事の刑期明け祝いに買って退任理事会に着ていき、その後も毎夏着てきた。ひと夏に何度も着るわけではないので、もう少し持たせたい。ただ元々はユニクロではなくて、丸善のがほしかったのだ。

大学3年生の冬、たしか研究室の助手(今の日本社会学会会長)に「丸善の営業さんがバイトを探してるんだけど、やってみない」と誘われ、二つ返事で引き受けた。仕事は丸善の「ブックニュース」(新刊洋書紹介の小冊子)の編集の手伝いで、フランス語の新刊書のリストから面白そうな本をリストアップして題名と概要を翻訳するというものだった。仏文科でもないのにやれたのは何でもアリの社会学だからだった。でも3年生には無理というもので、月二回の締切は最後まで徹夜で憂鬱だった。収入はまあまあ、ただしそれで生活するにはほど遠かった。

最初は楽しかった。何せ担当の社員さんが「むしゃぶりつきたくなるような美人」!苦しんだ挙げ句デッチ上げた仕事を渡しに行くのはまさに地獄から天国へ。半年思いを募らせた挙げ句近代美術館のマグリット展に誘い、さらに帝劇のミュージカルに誘って地下の香味屋でシチューを食べ、帰りの地下鉄で「付き合ってください」と告白。でも振られてしまった。すぐに寿退社してしまったのである。今どうしてるかな~。

その後も就職するまで続けた仕事。通うのは日本橋本店で職員用の出入り口だったが、帰りに店舗の方に出ても最初は叱られなかった。上の階には紳士用品売り場があって、夏になると海島棉のサッカー地のスーツが飾ってあった。いつか就職したら手に入れようと憧れた。実際就職すると結婚したこともあって生活は楽でなく、結局10年も経ってから、ユニクロのを買うことになったのである。その頃には丸善も昔の丸善ではなくなっていた。屋上の喫茶室で出していた「豚肉のハヤシライス」もどうなったことやら。

そんな(直接ではないが)思い出のあるスーツなのである。

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へいさんの思い出:魂の季節に寄せて

テレビでアナウンサーが「魂の走り」と叫んでいる。魂、そういえば今は魂の季節だ。子どもの頃は7日が(旧暦の)七夕の売り出しで、その後お寺さんの施餓鬼、盆に入ると丹波篠山にある墓に泊まりがけで参り、中日前後にお寺さんの棚経、その夜は家族で仏壇に西国三十三番札所のご詠歌(補陀落や~で始まり、~美濃の谷汲で終わる)を上げる。ただ、なぜか迎え火送り火の習慣はわが町にはなく(少なくとも私の子どもの頃には)、震災後祖母がやると言い出したので、今さらと返した。

棚経は住職が多忙なので、六甲山の裏の山寺からアルバイトのお坊さんが来てくれていた。祖父のお気に入りで、祖父はお経の後必ず1つか2つ信仰上の質問をし、若いそのお坊さんはていねいかつ慎重に答えていた。祖父はそれを私に聞かせようとしていたにちがいない。私が生意気な顔になっていくのを、そのお坊さんは微笑みながら私を見ていた。私はちょっと負けている感じがしたのである。ブランド好きの祖母は「へいさんは、駒澤首席やで」と、自分の買い物のように自慢していた。「へいさん」というのがそのお坊さんの名前なのか愛称なのか、私は分からなかった。

そんなことを思い出しながら、「そういえば施餓鬼って何やったんかいな」と確かめたくなって、ネットで検索したらびっくり、そこに「へいさん」がいた。本名が幣さんだったとは!それにめちゃ偉いお坊さんだった。ご健勝、ご活躍で何より。一度お目にかかりたいな。

https://www.soto-kinki.net/butsuji/chishiki_sejikie.php

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町の小さな博物館:名古屋市の私立博物館「荒木集成館」で和む

近所の小さな私立博物館(正確には公益財団法人です)で大学の研究者ではない方の個人コレクションの展覧会をやっていて、地方版の報道に誘われて訪ねてみた。ご本人の説明があるらしいがまだ来ないので、館長と世間話をしばし。これが楽しかった。現役の地方公務員であるご本人は結局コロナ対応で来られず、代わりにお母さんがやってきた!コレクションは文化人類学を専攻したご本人が大学院生時代に留学した内外両モンゴルで収集した日用品。とくに希少なものではないが、熱心に説明されるお母さんとこれまた楽しい会話。ちょっと心の和んだ土曜の午前だった。

わが母上が私の研究を他人に熱心に説明する、まったく考えられないな(笑)。

近所といっても徒歩で片道約1時間。結構な運動でした。

http://www.arakishuseikan.ecweb.jp/

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路上の職人たち:名古屋市のある日の風景

昼前に買い物に出かけた道ばたで、自転車に長い棹をかけ、錆びたフライパンや鍋をいっぱい下げた老人を見かけた。今日は月1回の不燃ゴミの日。老人は各戸回収のゴミ袋をあさってフライパンや鍋を集めて回っているのである。名古屋市はたぶん他の都市より資源ゴミの「抜き取り」に寛容なので、缶ゴミの日にはアルミ缶の詰まった巨大な袋を乗せた自転車が公道を行き交う。男性だけでなく女性も少なくない。またいわゆるホームレス「だけではなく」いや「ではなく」、どこかに「ホーム」のある風体の人が多い。フライパンと鍋の老人もホームレスには見えなかった。

長い棹に鍋、とくれば伝統的には「鋳掛け屋」だ(「鋳掛け屋の天秤棒」とは出しゃばりな人の喩え)。焼きすぎたり錆びたりしてできた鍋の穴を一時的に埋める職人。黒澤明の『どん底』で東野英治郎が演じている。しかし古い下町育ちの私でもこれまで見かけたことは数回しかない。今日見た老人はその逆で、フライパンや鍋を修理しなくなったから成り立つ「職人」だ。今どきのフライパンや鍋の特殊加工はすぐに剥げてダメになってゴミになる。でも熱伝導の良さをうたっているだけにステンレスの質はいい。だから集めるといい値で売れるのだろう。

『物売図聚』とか『商売往来』といった江戸や明治の路上風景を描いた古書があるが、現代の路上にもウーバーや宅配便だけでない、現代ならではの風景がある。

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故郷の味を求めて:夏休みに読む本

まだ夏休みではないけれど夏休みに読む本を借りてきた。『フランスパン・世界のパン 本格製パン技術:ドンクが教える本格派フランスパンと世界のパン作り』(2001,旭屋出版)。今から脱アカしてパン屋になろうというのではない。子どもの頃から大好きな神戸三宮センター街のパン屋「ドンク」のパリジャンの味を思い出したくて。

子どもの頃から?読んでみるとドンクがフィリップ・ビゴの指導の下フランスパンの専門工場をはじめたのは1965年だったそうだ。まさにドンクのパンは私とほぼ同い年なのである。大学出たての新しもの好きの叔父がよく買ってきたのは新しかったからなのだ。

大学受験の時、青山通りのホテルを予約してくれた叔父は、ここはドンクのパンが朝食に出るからなと言い添えた。その時はじめて東京にもドンクがあることを知った。青山店は1966年開店。でも朝食べたクロワッサンは神戸のドンクと違っていた、ような気がしただけで、さすがの食いしん坊も受験で縮みあがって味も何もなかったからにちがいない。

大学に入ってフランス語を習うと「ドンク」という言葉が出てきた。donc、 ああここから取ったのか。でもよく見てみるとドンクはdonq。本当はドン・キホーテのようにフランスパン作りに挑戦するという意味らしい。

いちばん驚いたのはドンクがまだ藤井パンだった1930年から戦争でいったん廃業するまでの間店を開いていた場所が、神戸市兵庫区和田宮通6丁目だったということ。そこオヤジが死んだ三菱神戸病院やん。小学生時代を疎開先の丹波篠山で過ごした父は知らなかっただろうが、祖父母は知っていただろうか。祖母は「食パンはバターたっぷりのドンクのやな」とつねづね言っていた。

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天職について:松本俊彦『誰がために医者はいる』を読む

アカデミックな専門家を看板にメディアで活躍する人は多いが、話をまじめに聞こうと思う人は私には少ない。スポットライトへの嫉妬もあるし、紋切り型の物語の語り手でしかないことへのいら立ちもある。そのなかで、いつも耳を傾ける同世代の専門家は、精神科医の松本俊彦氏と考古学者の千田嘉博氏である。その松本氏のエッセー『誰がために医者はいる』(みすず書房)を読んだ。

お二人を信頼し、またうらやましく思うのは、専門こそ違え、それぞれ自分の仕事に愛と誠実を持って取り組まれ、またその仕事を妨害する世間(たとえば郷土の文化財を票の道具にしか考えない下劣な政治家)と嫌がらず、阿らずに付き合い、さらに職場の組織上の業務も逃げずに引き受けられているからだ。そうした意味でお二人は仕事を天職としていると言えるだろう。さらにメディアへの露出は時間的にも無理があるし、メディアスターとアカデミシャンとは本質的に矛盾するが、お二人はけっしてメディアに魂を売らない。それもまたお二人の仕事が天職だからだろう。

松本氏の名を知ったのは、皮肉なことに彼が強く反対する「ダメ。ゼッタイ。」キャンペーンの担い手になるハメになったからだった。その業務を通して彼の名とダルクを知り、そのプロセスをよく知りたいと思ったが、業務上の私は結局「ダメ。ゼッタイ。」と不良学生を追い回すことしか許されず、彼らの更正復帰のプロセスは後任の教育学者に攫われてしまった。その結果、私の中で後戻りの効かない崩壊が生じて、私は私の仕事を天職だと思えなくなってしまった。それまではいつかそうなれると思っていたのだが。

必ずしも穏やかな出合いではない患者から学び、自分の治療と知識を深めていく松本氏の職業人生を、私は苦い思いで読んでいる。私はもともと学生との付き合いが苦手で、今や全く無理になってしまった。もちろん仕事上定められた教育(実に低レベルなものだが)はするが、それが自分を深めているとも、そもそも自分が深まっていくとも思えない。心のどこかで、「早くクビにしてくれ、お払い箱にしてくれ」という声がいつも聞こえる。

この本ではアルコールや向精神薬への依存の問題がていねいに論じられているが、これも私には親しい事柄である。向精神薬が効いてスッキリという経験はなかったが、美味い酒、楽しい酩酊の記憶はたくさんある。しかしそれはほんとうは何だったんだろう。それに仕事。これも若い頃にはうまくいった、楽しかったという記憶があるが、それもほんとうは何だったんだろう。

冒頭のお二人に戻ると、私は実に下劣な読み方をしていて、奥付を見ればお二人は東大出でも洋行帰りでもない。私の世代の出世したアカデミシャンはちょうど東大出から洋行帰りの移行期にあったように思う。私は東大出だが洋行帰りで箔をつけることはできなかった。しかしそんなことはよい仕事、天職とは何の関係もない。今頃それに気がついてももう遅い。もっと早く、小学生のときに気づいていればよかった。

面白いですよ。おすすめですよ、とただ書けばよかったのに、すみません。

 

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良き師よき友:松田素二先生の退官記念出版の合評会に連なって

社会人大学院のZoom面談の合間に、社会動態研究所が開催した松田素二先生の退官記念出版『日常的実践の社会人間学』(2021,山代印刷出版部)の合評会を覗かせていただいた。松田先生とは残念ながらご縁がなく、今回はじめてお話をうかがったのである。司会は今活躍中の石岡丈昇先生と打越正行先生。ふと見ると40人近い参会者で私より年長なのは松田先生含め4人くらいか、年はとりたくないものです。

松田先生の『抵抗する都市』(1999,岩波書店)に接したとき、私の浅薄な研究とは全く異なる豊かなフィールドワークの成果ではあるものの、どこかで関わりそうな気がしてうれしかった記憶がある。一方で、私の閉じて凝り固まった思考とは全く異なる、進み広がっていく思考も魅力だった。今日も、とくに後半の討論のなかでそうした先生の魅力を再確認することができた。

松田先生とそのお弟子さんたち、影響を受けた方たちとの関係は、ちょうど私の師匠たちと私の関係より約10年後にズレたかたちになる。そのこともしみじみと感じられた。たとえば伝説化して語られていた鳥越皓之先生は、私にとってはまだ伝説以前の、都賀川の住民運動を調査されていた若々しいイメージのままなのである。さらに神代の昔の中野卓先生は「なかのすぐる」になっていた(「たかし」です!)。この10年のズレはいろいろな意味で大きいのではないか。

でも、一定の緊張感を保ちつつも「〇〇君」とひとしく親しく先生に呼びかけられるお弟子さんたちを、師弟関係をしくじり、「私は東大の初めの頃、弟子育てに失敗した」と師匠に書かれた私はうらやましく、また寂しく思った。

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