ああかの幸福は遠きにすぎさり:55歳の誕生日を迎えて

表題の章句は、萩原朔太郎の詩「広瀬川」の一節である。連作『郷土望景詩』の1つで、高校の国語の授業でこの詩人を教わってから、よく知られた口語体の『月に吠える』や『青猫』よりも、これ以降の文語体の詩編を愛唱してきた。この詩作の時点では、まだ朔太郎の人生は荒廃していない。しかしすでに将来を予感させる。「われの故郷に帰れる日、汽車は烈風のなかを突き行けり・・・」

若い頃の親友が、ともに遊んだ九州湯布院の宿の風景をFBに上げていて、懐かしさと寂しさに浸った。当時が幸福で今が不幸というのではない。ただ昔と今の懸隔に呆然としているだけだ。当時は人生は足したり引いたり、誠実に取り引きしていけばだいたい黒字で終わるだろうと思っていた。途中で破産するとは思ってもみなかったのである。あの宿にもそのうちまた行けると思っていたが、仮に破産してなくても、今はとても行ける気がしない。

繰り返しになるが今が不幸というのではない。私と同じような生活をしている同業者のエッセイを読んで、私よりずっと順風満帆な様子を少しうらやましく思ったが、省みれば私の生活はそれなりに充実している。職場も家庭も、市谷の教室から多摩の下宿に帰る深夜の京王線ですら、落ち着いた心でいればみな私の居場所であり、かけがえのない「至高の現実」である。この誕生日もFB上で多くの友人から温かいメッセージをいただいたし、さりげなくお菓子を届けてくださる同僚もいた。ありがたいことである。

だから、冒頭の章句に続く結句「小さき魚は眼にもとまらず」とは、過去が幸福なあまり今のささやかな幸福を感じられないのではなくて、「広瀬川白く流れたり」、その流れの速さに立ちすくんでいるからだ。若い頃は流れに棹さして幸福を探す旅に出たが、今その流れはただ虚無の大海に流れこもうとするばかりだ。信仰を得ればよいのか、それとも。56歳で亡くなった朔太郎は「虚無の中にある私を信じる」と絶唱している。

 

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天行健:近衞文麿という人への興味

「天行健、君子以自彊不息」、『易経』の卦の1つだそうである。

野口昭子『回想の野口晴哉 朴葉の下駄』(2006,ちくま文庫)に、夫晴哉に言われて父近衞文麿に「天行健」と書いてもらう話が出てくる。1945年7月敗戦のひと月前、晴哉と疎開していた新潟から軽井沢の別荘にいた父に呼ばれたとき、晴哉は彼女にそう伝言したのだった。彼女は文麿の長女だから、世が世ならば「あきらこ」とか「しょうし」と呼ばれて入内したであろう人である。

晴哉本人は随筆『大弦小弦』(1996,全生社)にその背景を記している。元々彼の道場には東郷平八郎から贈られた「千慮無惑」(ママ、不惑か?)の額が掲げられていた。それを見た文麿が「この複雑な時勢、私なら『千慮千惑』だ」と言ったので、晴哉は答えて「天行健を信じれば無慮無惑だ」。文麿「私にはまだ天行健は書けない」。

スターリンへの講和特使出発を前にして娘を別荘に呼んだ文麿に、晴哉はなぜ天行健を書いてもらうよう頼んだのだろう。昭子はその点に深く思い巡らしているが、晴哉の方は届けられた書を「自信のない字」と一刀両断している。しかしそれを額装してずっと道場に掲げていたそうである。そして自らも死に臨んではじめて「天行健」と書いた。

私は若い頃「電力の鬼」松永安左エ門を研究したときに(何の研究?)、松永がひどく文麿を嫌っていたので、それを鵜呑みにして彼のことを軽んじていた。この間ふと上記のことを思い出して、それはそれで面白い人物だったのだな、と興味が出た。

ちなみに世に知られる文麿の絶筆は「松上雪」だそうである。冬中常磐の松を覆い、春が来れば消えていく白雪ということか。あまりに軽薄な虚言と言えば言えるが、本人には深刻な誠実があったにちがいない。そこが面白いのである。

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彼岸に向かわれる先生へのムマの鼻向け:高校時代の恩師の訃報

久しぶりの長い上京仕事を終えて帰宅すると1枚の葉書が、高校時代の国語の先生の訃報だった。ずっと年賀状のやりとりがあったのでご遺族が知らせてくださったのだ。合掌。

私の母校灘中高では(今はどうか知らないが)中高の6年間主要教科の担任は持ち上がりなのだが、色々事情があって先生は高校2年から私たちの担任となった。その事情のせいではじめは先生も私たちもある種のよそよそしさがあったと思う。

第1回の授業で、先生はいきなり柿本人麻呂の長歌「玉だすき畝傍の山の」を暗記、朗唱するように指示された。その時はっきりそう思ったわけではないが、確かに私はそれを私たち(少なくとも私)への挑戦と受け取ったのだ。朗々と寸分たがわずに唱してやろう。その時先生は、私に研究という行為のキホンのキを一瞬で叩き込んでくださったのだ。

先生の授業は完全な作家作品研究主義で、次々と作家や作品のプリントを配って解説していった。それを通して私は萩原朔太郎と室生犀星の友情と蹉跌、とくに「ふるさとは遠きにありて」への朔太郎の「誤読」から始まる論争を知った。私の博士論文が萩原朔太郎論で始まるのは、先生のおかげである。

先生は京都大学文学部出身で、研究者を志したが果たせず高校の教師になったと明言されていた。生まれつきの手の障害も原因の1つだったのだろう。しかし先生はその手を1つのキャラクターにまで昇華されていた。私たちはその小さな玉のような手を見ないようにするのではなく、その手が教科書やプリントを巧みに支えるのをまるで手品のように見ていた。

いつだったか、先生は鈴蘭台(六甲山の北側の新興住宅地)からの通勤路で見る山のコブシの花の美しさを「辛夷」という漢字とともに熱く語られた。これまでもこれからも、春コブシの花を見る度に先生の奥床しいお人柄を思い出すだろう。

柿本人麻呂の次か次の次かは『伊勢物語』、「馬の餞」という言葉が文字通り馬の鼻を向けるという意味であり、昔は馬を「ムマ」と読んだという話を熱心になさったので、私たちは先生イコール「ムマの鼻向け」と思っている。だからこの訃報を聞いた同窓生たちは皆「ムマ」あるいは「ムマの鼻向け」という言葉を思い出したにちがいない。

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様々なる意匠:書架の片隅から昔の本を

新学期が始まって1年間放ったらかしだった研究室の書架を眺めてみる。前から再読したく思っていた本が目にとまる。『小林秀雄初期文芸論集』(1980,岩波文庫)、もちろん中学生が買うわけもなく、大学院生時代に買った1993年の12刷だ。専攻する都市論でしばしば引用される「故郷を失った文学」(1933)をていねいに読むために買ったのだと思う。

高校の国語で小林秀雄の精読という授業があった。東京高師出の嫌味な先生で、小林への信仰告白を強要するような内容だったので不貞腐れていたら、1時間ひとりで発表する羽目になってしまった。色々考えた挙げ句「この人は本当は何も言いたいことがないに違いない」という結論を話してしまった。当然先生は怒って、いっそうねちねちと非難した。彼は「お前は不勉強な上に高慢だ」と言ったが、これはまったく当たっていた。それ一本でここまでやってきたのである。

小林を再読しようと思ったのは、近頃幾度も「様々なる意匠」という言葉が思い出されるからだ。27歳の小林は意匠を超える営みとして近代文学を積極的に評価し、そこを自分の批評の原点としているのだが、55歳になる私の方は退嬰的で、まああれもこれも「様々なる意匠」に過ぎないな、と思考を途中で投げ出す言いわけにしているだけである。

相変わらず文体は好きになれないし、「様々なる意匠」も「故郷を失った文学」も半分くらいしか分からないのだが、小林が近代文学を通して求めていたことは何となく分かるようになってきた。小林なら社会という言葉こそもっとも粗悪な意匠だと言うだろうが、私は社会と名指されるものこそ意匠に回収できない何かだと言いたい。その意味では、もし私が考えていることにまだ意味があるなら、私の考えすなわち社会学は小林のいう近代文学とほぼ同じだと言っていいだろう。

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年度替わりに変われない男のぼやき

校外で引き受けている野暮用のまとめ役が近頃アタリが変わったな、と思っていたら年度末で異動だった。徹夜でまとめの仕事をして、居残り組への置き土産にして去って行く。きっと心は晴れ晴れとしているに違いない。

役所や企業は定期的な異動によって気持ちを切り替えられるが、私たちの職場はそうはいかない。上手に複数の大学を渡り歩き、テーマをくるくると変えていく人もいるが、たいていは40過ぎた辺りから1つの大学に居座り、一見新奇なことに挑戦しているように見えても、よく見れば同工異曲というケースが少なくない。安定感というべきかもしれないが、少なくとも私自身はつまらない。それならやめた方がいいのだが、その勇気もない。

といったことをウダウダ考えているのは、2年間務めた職場の管理職を諸般の事情から1年延長することになったからである。病気の後けっして管理職は引き受けないつもりだったが、そうもいかなかった。そのうえ3年目、よほどの人材難である。あまりにつまらないので、カリキュラムの大リストラを提案することにした。提案の中核は自ら立案、担当してきた科目を廃止することである。20年もやって飽きたし、資格科目になっているせいで中身を刷新しにくい。しかしその資格も認定先にカネを払えばとれるようになったので、わざわざ私がタダ働きする必要はなくなった。やめた、やめた。

退職前に不安定になる、退職後に虚ろになる人をよく見聞きするけれども、私はきっと晴れ晴れするだけだろう。世界と敵対する気は毛頭ないが、仕事で世界とつながっている実感は擦り切れてしまった。というか、仕事だろうが何だろうが、世界とつながっていなくても別にいいじゃん。世界は世界。私は私。

 

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ちょっと(というにはやや重い)いい話

癌で瀕死の和田夏十が野口晴哉に訊ねた。「先生、整体で元気になるには何年かかりますか」。野口は答えた「20年」。和田はガッカリした「20年も・・・」。

しかし帰り道和田は気づいた。「私あと20年は生きられるんだ」。

依存させず希望を与える指導とはこうしたものだろう。和田は18年癌と闘って死んだ。その時すでに野口はこの世の人ではなかった。

 

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私はなぜ洋菓子を焼くのか:コロナ自粛の終わりに向けて

4月からは対面授業が必須となったので、リモートワークの合間(しながら)にせっせと洋菓子を焼く生活ともお別れだ。

私はなぜ洋菓子を焼くのだろう。家族は絶望した仕事の代償だと思っているようだ。確かに色々な意味で美人投票になってしまった仕事とちがって、正しいルセットで焼く洋菓子は結果が客観的で明快だ。焼きながら砂糖のグローバルヒストリーや小麦栽培の起源についてぼんやり考えるのも楽しい。フロイト的には更年期に伴う口唇期的退行という面もあるかもしれない。バターと砂糖でできた、ふわふわとした洋菓子は、もう一度心ゆくまで母乳をむさぼりたいという欲望の表れなのかもしれない。

野口晴哉のどれかの本に、左右型体癖の老人の最期が記されていた。死に臨んでの彼の欲望は桃缶が食べたい、だったという。家族が食べさせるとむしゃむしゃ食べて、もっと食べたいとせがみ、家族が次の缶を開けている間に死んでしまった。これはいい方で、うまくないと久保田万太郎のように日頃食べ付けない赤貝の握り寿司をつまんで(赤に惹かれるのも左右型体癖の特徴)、喉に詰まらせて死んでしまう。

穀物こそは暴力的文明の元凶、砂糖はアルコールより依存性高い、ホルスタインのゲップは大気汚染、ありとあらゆる倫理的非難にもめげず、これからも私は暇を見つけて洋菓子を焼き続けるだろう。結局それが「私が私である」ということなのかもしれない。

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思いつきと思い出の果てに:佐藤康宏氏の警句に触発されて

『UP』580号の連載「日本美術史不案内」で、美術史家の佐藤康宏氏が「思いつきと思い出しか書けなくなった人間には、研究者を名乗る資格はない」という警句を掲げられていて、膝を打った。まさにブログやSNS上の私そのものである。それでFBにそのままつぶやいた。友人や同学の方からいくつかレスポンスをいただいて、なぜこの警句に捉えられたのか、少し考えてみたくなった。

省みれば、表向きの最初の理由は嫉妬である。警句の前では自分の!退官記念論文集が師弟や同学のよき交わりによって成ったことを自慢していて、「ああ、いいな、東大の先生は!」と嫉妬したことは確かだ。もっともそれは筋違いというもので、東大だろうが何だろうが、師弟や同学のよき交わりはある人にはありない人にはないのであって、ないのはない人の問題である。私に即して言えば、あっても活かせない人の問題である。

もう一つの表向きの理由は怒りである。他人に資格があるとないとか、何を偉そうに。十歳以上年長の東大教授が偉そうでも別段不思議ではないが、もうそうした「人生の教師」的役割を、私たちは東大教授に求めていないのではないか。

しかし本当の理由は別のところにある。佐藤氏が当たり前のように提示する「思いつきと思い出」と「研究」との対照そのものが面白かったのだ。佐藤氏の文意に沿えば、「研究」とは確かな事実に基づく集合的な議論(師弟と同学のよき交わり)の蓄積に支えられた現在であり、逆に「思いつきと思い出」とは事実に基づかない孤独な妄想と、現在から逃避するために現在から行われる過去の粉飾、いうことになるだろう。ところでこの対照は、ある意味で社会と個人、あるいは社会と文化と置き換えることができるのではないか。だとすると、究極には個人の妄想的営為でしかない芸術作品とその乱雑な堆積(蓄積ではない)としての美術史に取り組む美術史家にとって、この対照はけっして当たり前のことではなく、むしろつねに自分の存在を問い直される根本問題なのではないか。翻って私にとっての社会学も、けっして「研究」に回収されない、すべきでない、事実に触発されるが事実に基づかない「思いつきと思い出」に基づく他はないのではないか。

具体例を挙げると、後期印象派などという言葉でゴッホの絵を語ることはできない。日本近代などという言葉で奥のオバァサンの話を語ることはできない。NNが「まなざしの地獄」に示した拒絶反応の理由もそこにあるし、逆に拒絶されても見田先生は屁でもなかったろう。

美術史の大家にケンカを売りたいのではない。私には、ただ「思いつきと思い出」だけについてフロイト的に考えるだけでも十分に面白いのだ。「思いつきと思い出」のうち純粋にそうである部分は意外に少なくて社会的に構築される部分の方が多く、もしそれらをすべて剥ぎ取って本当の自分にたどり着きたいなら、やはり「思いつきと思い出」に固執する他ないのではないか。

連れ合いにこの件話したら「その人、誰に向かって言っているのかしら?」。さすが社会学者、目の付けどころが違う(笑)。私の想像では、それは近頃朝日新聞にかなり怪しい「思いつきと思い出」を不定期連載している、佐藤氏の研究室の大御所、高階秀爾氏に対してかもしれない。

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小さなものの諸形態:近所のスーパーのシュークリームに寄せて

どうしても気になってしまう小さな事柄を記してみたい。「小さなものの諸形態」とは市村弘正先生の名著の題で、パクりです。

連れ合いが近所のスーパーでマロンシュークリームを買ってきた。食べてみるとなかのマロンクリームに違和感あり。包装の原材料名を見ると「栗、白餡」とある。おや、安い和菓子のようだな、洋菓子店はしない選択だな。

このシュークリーム、前に住んでいた町の近所の洋菓子店の名前をつけて売っている。その店はスイスの高級チョコレートを使っているのがウリで、店の名前もそのチョコレートにちなんだものだった。私は味が好みでなかったのであまり買わなかったが、学童保育所が向かいだった子どもたちには憧れの店だったらしい。美味しそうな風貌をした(これ、よいシェフやパティシエの条件といわれる)主人とは地域の行事で何度か話したこともある。人柄のよい人だった。しかし数年で店をたたみ、後はイタリア料理店になった。

今の住まいの近くのスーパーでその店の洋菓子を見つけたときには驚いた。より市内に近いところで再開したらしい。しかし調べてみると名前を継いだだけで、あの主人の店ではなさそうだった。さらに少しすると店の名前も変えてしまった。スーパーの菓子の名前はそのままだが。

ところが、である。包装の製造者名には全く異なる和菓子店の名前が。その店も実は知っている。これも前の住まいの近くにあった高級そうな店で、一度寄ったが味が好みでないので(うるさいねえ、この人)、リピートしないうちに駐車場になっていた。それがこれも中心部に近いところで再開している。ただし店舗はなくて製造だけ。なるほどそれなら白餡は頷ける。美味しくないけど。

京都の老舗のように400年以上続いている商売もあれば、このように続いているのか続いていないのか分からない、キメラかサイボーグのような商売もある。もし中野卓先生がご健在ならば、こうした「商家」を社会学はどう分析すればよいのか、うかがってみたい。

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無ではなくなりません、死でなくなります:茶杓「泪」を見る

「泪(なみだ)」を見た。利休居士が最後の茶会に削った茶杓。弟子であり当日の客でもあった古田織部に与えたという「聖遺物」。織部は「鞘」を作って拝んでいたという。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/96849

「鞘」には窓が開けてあるが、展示では出してあるので、中身のどの位置に開けたのか分からない。私には茶杓の節が見える位置に開けてあるように見える。節は師の切った腹であり、やがて自分も切るだろう腹である。昔見た熊井啓監督『本覚坊遺文』(1989,東宝)のテーマ(萬屋錦之介演じる織田有楽斎が利休の切腹を真似てみる)を思い出した。

唯一無二の「聖遺物」で来歴も明白(織部に切腹を命じた家康が手に入れ、徳川を「文」の家とすることに異常な執念を燃やした尾張義直が拝領した)なのに、国宝でも重文でもないのはなぜだろう。モノがまとう野蛮さ、暴力性が宝と呼ぶことを躊躇わせるのだろうか。

元々は尾張徳川家の博物誌『張州雑志』を、併設されている「名古屋市蓬左文庫」に見にきたのである。この状況下の平日なので客は少なかったが(通常は尾張徳川家の雛人形が出るので混雑する)、「泪」の周りにはまったく人がいなかった。その虚ろさがかえって「聖遺物」の野蛮さ、暴力性を際立たせているように感じたのは、物語に囚われすぎて「モノそのもの」を見ていないからかもしれない。

https://www.tokugawa-art-museum.jp/exhibits/planned/2021/0206-2hosa/

 

 

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