あまりにフロイト的な:ある講演でのできごと

100年の歴史を持つ著名な組織の記念行事で、その組織の「生き字引」とも言うべき方が講演している。貴重な裏話を交えて会場を沸かせながら、その方は100年の栄光の歴史をとうとうと語っている。100年の歴史の後半4分の1くらいにさしかかったとき、突然その方は同じ話を3回繰り返した。そして「少し混乱してしまいました」と断って、さらに話し続けようとしたが、後は支離滅裂で、前半4分の3のなかのエピソードがランダムに取り出されるばかりだった。主催者たちは何度か支援しようとしたが、とうとう諦めて、「時間なので」と講演を打ちきった。会場は休憩に入り、参加者も騒ぐことなく次の行事に進んでいった。

最初私は、これは演者の老耄で、もしかするとそのまま倒れてしまうかもしれないと思って、意気地なく場外に逃げ出したのである。幸いそうしたことにはならなかったようで、よかった。

しかし、後で考えてみると、これは実にフロイト的な情景だったと思われる。例の「しくじり(失錯)行為」である。彼が3度繰り返した話は、実はその栄光の歴史が上位の組織によって占領される場面だったのであり、占領されたのは他ならぬ彼だった。そして会場には、私を含めた、占領した上位の組織の後継者たちが知らん顔を並べていたのである。時系列が壊れ、支離滅裂に聞こえた話も、そうではなく、「敗者の歴史」を「勝者の神話」に置き換えただけなのだ。悲しいのは、演者も私も、もはや神話的時間に生きることはできず、神話を通して勝者と敗者を逆転させることもまたできないということだ。

かつて何度かお話したとき、ほとんど歯牙にも掛けてくれなかった演者、その理由も含め、今日の講演は、私に「敗者の精神史」(山口昌男)の悲しみを強く教えてくれるものだった。

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さまざまな「国民国家」の経験:国際ワークショップを手伝いながら

先便で紹介した、ドイツ人学者マイケル(ドイツ語ではミヒャエルだと思うが、本人はマイケルで通している)・クーン氏が主宰する学術ネットワークWorld Social Science and Humanity Network のワークショップを、矢澤修次郎先生をお手伝いして、法政大学市ヶ谷キャンパスでこの土日に開催した。

https://www.worldsshnet.org/

国際経験の致命的に貧困な私が下働きだった結果、盛会にはならなかったし、相変わらずIs this a pen? レベルの英語から上達しない私は、話を聞いているのがやっとだったが、ナイジェリアやアルゼンチンなど、いろいろな国の研究者の話を聞けて、勉強になった。

今回のワークショップでは、来日できない方をスカイプでつないで議論することになったが、これが面白かった。スカイプも「ベ」ビーユーザーの私は、スカイプで会話しながらパワポを動かせることにびっくり。でも、ビジネスでも使われるスカイプがそうなっていることに何の不思議もない。インドの方のプレゼンの声の向こうに、喧しい小鳥のさえずりが聞こえ、勝手に大きな菩提樹の姿を想像してしまった。

今回は複数の西欧先進国でない方の、それぞれの経験と立場に基づく「国民国家」に関する研究報告があって、それにクーン氏がいかにも西欧的な批評を加えるかたちで進んだので、社会科学における西欧中心主義の克服といったテーマをずっと考えることになった。クーン氏自身は決して西欧中心主義ではなく、ただ理論的で批判的でありたいだけだと言われるだろうが、その姿勢そのものが(それに無意識であることも含め)、実は西欧中心主義の核心なのかもしれない。矢澤先生は、「理論的に詰めればそうかもしれないが、社会科学は多様な現実に寄り添うべきだ」と何度も反論されていた。

議論の中身について言えば、クーン氏は徹頭徹尾国民国家について批判的な立場だが、多くの、とくに途上国の方々は、腐敗した官僚制など、あらゆるその悪徳を踏まえてもなお、国民国家の積極的な面に言及しないではいられない。それはインドの方が言われていたように、それぞれの社会にとって、国民国家が不自由で差別的な前近代社会を破壊する唯一のツールだったからだろう。しかし、それはドイツも同じだったのではないか。

ワークショップの終わりに、手伝いを労いながら、クーン氏は、「矢澤先生はあなたの博士論文の指導教員か」と聞いてきた。私が卑屈に見えたので、そう言われたのかもしれない。が、私は即座に「そうではない。just friend だ。」と反論した。横におられた矢澤先生も、「そうだ。friend  だ」と言ってくださった。矢澤先生に friend と言ってもらえて、私は光栄である。

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知らなかった名古屋メシ:大府市の最優秀賞納豆

「全国納豆鑑評会」で愛知県大府市の高丸食品の納豆が2年連続で最優秀賞に輝いたという新聞記事を見た。納豆に鑑評会があったなんて!。その日本一が地元の知らないメーカーだったなんて!。

この手のコンクールの結果はにわかには信じがたい。というのは、小学生の頃、「よい歯のコンクール」の市大会に学校代表で出場したのだけれど、実はわが校の校医が学校歯科医師会の会長だったので出来レースだったのである。ところが、私の犬歯の一本に色ムラがあるというので、歯医者たちが集まってあーでもないこーでもないと長々議論した挙げ句、私は賞をもらえなかった。歯で賞をもらってもねえ、と子供心に思っていたので、がっかりはしなかったし、引率してくれた若い女性の養護教諭の先生が、「残念だったわねえ」と帰りにソフトクリーム(歯に悪い・・・笑)を奢ってくれたので、かえって得した気分だった。とまあ、そういうわけで、業界のコンクールは出来レース、という先入観がある。

さっそく近所のスーパーに行って探してみた。多くの全国メーカーの並ぶ棚の片隅にそれはあった。買い求めて、家へ帰って開けてみる。包装は全国メーカーと変わらないが、フタを開けると、おやこれは・・・。昔文京区に住んでいた頃食べていた、明神下の天野屋の「芝崎納豆」と同じ、菌が何かつやつや、生き生きしている。当然旨い訳だ。付属のタレもダシより味醂の味が濃くて面白い。ダテに最優秀賞ではなかった。新しい名古屋メシ発見である。

省みれば、名古屋・愛知は発酵食品王国だ。ちょっと名前で揉めているけれど八丁味噌。味醂、麦を仕込んだ白醤油、米酢(糟から作るのが本格的)、かわったところではパン(敷島パンにフジパン。日露戦争の戦艦みたい)。納豆は水戸が定番だけれど、今では半田のミツカンも米酢より納豆だ。隣町の大府にいい中小メーカーがあっても不思議ではない。

大府は、他にフォークリフトの豊田自動織機の大きな工場と、昔直売所日本一だった農産物マーケット「JAあぐりタウン」と、高齢者医療の国家機関、国立長寿医療研究センターがある。地味だけれど面白い町である。

 

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いろはにほへとと書きなさい:茅ヶ崎の開高健自宅の記念館

駅から少し遠いのと、昔たくさん読んだわけでもなかったので迷ったが、せっかく茅ヶ崎まで来たのだからと、思い切っててくてく住宅街を歩き、作家開高健の自宅を作り替えた記念館を訪れてみた。

若い人には開高健って誰?だろう。いや私の世代だって、テレビコマーシャルのなかでアラスカでワイルドな釣りをしている太ったオジサン以上のイメージはないのではないか。中学生の頃、文庫で1冊くらい読んだ記憶も遠く、内容も覚えていない。

どうでもいい話をすると、同じサントリーの先輩の山口瞳と並んで、その後続々と現れてくる宣伝マン出身の作家のハシリだっただろう。またたしか『裸の王様』で芥川賞を争ったのは、副田義也先生の『闘牛』だったのではないか(古市氏の遠い先輩ということ、そのうち古市氏も偉い先生になるか?)。

ちょうど「風に訊け」展ということで、『週刊プレイボーイ』に連載していた人生相談の回答が館内にちりばめられていた。ああ、これなら覚えている。山口瞳の『男性専科』といい、大人の男になることのイメージを搔き立てられたものだが、大人になったときには、「大人の男」という概念が崩壊していた。

それ以上に思い出を呼び覚ましたのは、館内に流れていた開高の声である。絞り出すような細くて高い関西弁、お世辞にもワイルドな大人の男のイメージ(菅原文太のような)ではない。同じような悪声の関西弁の、太ったオジサンつながりで、小田実を思い出した。これが遠藤周作の声は思い出せないのだから、それだけ開高のテレビ露出度が高かったのだろう。

記念館の奥には開高の書斎が静態保存されている。臆病で陰気な熊のねぐらのようなそれは、考えたり、書いたりする場所というより、うつ病者が引きこもる場所に見えた。病気の頃の私の研究室や寝室と変わらない。そこで、開高がスランプの時、師匠の井伏鱒二を訪ねて「先生、書けないんです」と泣いたら、井伏が「紙に、いろはにほへとと書きなさい」と教えたことを思い出した。私がこうしてブログを書いているのも、「いろはにほへと」の1つかもしれない。

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死んだ宝物(ヴァイグア):みんぱくを訪ねて2

さあさあお立ち会い。文化人類学を学んだ人なら知らない人はいない、ニューギニア・トロブリアンド諸島のクラ交換の宝物(ヴァイグア)、ソウラヴァ(左「上」ウミギクガイ製のビーズの女性用首飾り)とムワリ(右イモガイ製の男性用腕輪)だよ。

みんぱくの新展示の第1室はオセアニアで、お得意のアウトリガーカヌーの伝統航法の解説がメインだが、隅っこにこれらの宝物も展示されている。ただしB.マリノフスキの『西太平洋のアルゴノーツ(遠洋航海者たち)』への言及はない。ちなみに、オーストラリア先住民(アボリジニ)の展示にはブーメランはやたらにあるけれど、C.レヴィ=ストロースの『野生の思考』でおなじみのチューリンガ(部族の想像的歴史を刻んだ石棒)はない。

しかし、これは死んだ宝物である。なぜなら、マリノフスキが正しいのなら、これらは人びとの間を冒険航海によって渡っていき、手に入れた英雄の伝説が堆積してこその宝物なのだ。せっかく日本に来ても、博物館の陳列ケースに閉じ込められては意味がない。すぐに誰かに渡さなければ(正確に言うと、決まったクラ仲間が取りに来なければ)。

勝手な妄想。ソウラヴァは大英博物館にとられ、ムワリはニューヨーク自然史博物館にとられて、それぞれで若き日内蒙古を縦横に駈けたグレート梅棹首長の名とともに展示される。かわりに大英博物館からそれこそマリノフスキの持ち帰ったムワリが来て、ニューヨーク自然史博物館からM.ミードのコレクションのソウラヴァが来る。それでこそ、クラ交換だ。

話は変わるが、今流行の太陽の塔、いつみても昔の安いオチョーシに見えるのは私だけか。

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三度目のみんぱく:国立民族学博物館への疑問

一度目は高校2年生の時。文化人類学者になりたいと言い出した息子に、父は「じゃあ、どんなもんか見に行くか」と言って、祖父母も一緒に家族で繰り出した。二度目は今の職場での最初のゼミ合宿。まだサンプラザが万博記念公園にもあって安く宿泊できたので、学生たちを連れ出した。そして今回、授業でグローバリゼーションとナショナリズムの絡み合いの例として、国立博物館がどう変わっていくのか論じている。今年は歴博。来年はこの訪問をネタにみんぱく。再来年は白老のアイヌ博の予定(まだできていないかも)。

一度目の時は入り口に「アマゾンの干し首」が飾ってあった。今じゃ絶対NGだが、当時は川口浩的血湧き肉躍る導入だった。あの干し首、今でも収蔵庫にあるのだろうか。二度目の時はフィリピンで新品を買ったらしいピカピカのジープニーが飾ってあった。ジープニーがなんで「民族学」なのか説明が足りず、研究者の自己満足に思えて腹が立った(今も展示されているが、古寂びていい風情になっている)。今回一番感銘を受けたのは、中央アジア(何とかスタン)やシベリア(チュクチ)の展示が大幅拡充されたことである。一度目の頃はまだソ連時代で無理だったのが、ソ連が崩壊して30年、社会主義すら展示の一要素になっている。

今回の私のいちゃもんは、2つある。1つめは、ホームページやパンフレットに記された「博物館をもった研究所」という文言だ。ええっ、「研究所をもった博物館」じゃないの?。上野の科博が「博物館をもった研究所」と言ったらおかしいでしょう。あるいは私たち大学が「教育機能をもった研究機関」と言ったらおかしいでしょう。だいたいそんなこと、いつ国会で決めたの?。一方で、入り口には「みんなの博物館」と書いてあって、ご愛敬。当たり前でしょう。国税でやっているんだから。何か勘違いしてるんじゃないのかな、ここの先生たち。

2つめは、民族学という名前、もうそろそろお終いにしたら、というものだ。大林太良先生が亡くなられた後「民族学者」を名乗る人はもういないはずだ。文科省の研究費の区分にもないでしょう。いや「大日本帝国」と同じ歴史的な用語だからいいのだ、というのなら、最初に「民族学って何だったのか」を現代の水準でクリティカルに説明しておいてほしい。もっとも、私は「人類学博物館」になればいいと思っているわけではない。渋澤敬三の邸宅の屋根裏の博物館からずっと積み重ねられてきた資料と研究は、やはり「民族学」という名がふさわしい。

いっそのこと、「アーリア民族コーナー」とか作ったらどうでしょう。親衛隊の軍服を飾ってフルトヴェングラーのマイスタージンガーを流すとか。

ちょっと寂しかったのは、シンボルマーク。たぶん梅の花を意匠化したデザインで、創設者「梅」棹忠夫先生を記念するものだったのだろうけれど、どこにも梅棹の顕彰コーナーがない上、マーク自体もほとんど使われなくなっている。渋澤にしろ梅棹にしろ、もっと歴史を大事にした方がいいと思う。でないと、自分たちも忘れられちゃうよ。

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それは社会学じゃないよ3:富永健一先生追悼

一昨日の朝刊で、私が学部で社会学を習った先生の1人、富永健一先生の訃報に接した。1年前に書いた富永先生についてのこのブログの記事を再掲し、追悼したい。合掌。

有斐閣の『書斎の窓』最新号の自著紹介欄で、大阪大学の友枝敏雄先生が学生時代の思い出話を書かれている。学部生時代にある先生に研究の相談をしたら、「それは社会学の研究ではないですね」と言われたというのだ。

おやおや、私のような生涯一ダメ社会学徒ではない、社会学の王道を行かれる友枝先生にもそんな時代があったのかと、ちょっとうれしくなった。それ以上に、たぶん友枝先生にも、私にもそうしたダメを出し続けた富永健一先生のことが懐かしく思い出されたのである(前便「それは社会学じゃないよ」参照)。それはそれで、他人には真似できない優れた学生指導の方法の1つだったと思う。

ふつうの秀才は、そう言われれば先生のいう真の社会学を一心に修得しようとするだろう。野心家の秀才は、先生をへこませるようなオリジナルの社会学を構築しようとするだろう。両者相まって社会学を深く広くするので、「社会学を愛してください」と学部の卒業式で私たちに語られた、富永先生の願いは遂げられるのである。

さらに私のような変人は、一生社会学とそうでない知の境界、あるいは社会学が立ち上がったり、崩れ去ったりする「臨界」にこだわり続けるが、それもまた1つの社会学の愛し方として、富永先生はよしとしてくださるのではないか。

で、デュルケムである。『自殺論』のあの冗長な第1編「非社会的要因」を、「非」にこだわって読み直してみよう。

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人事を盡くして天命に委ねる:小田原老欅荘を訪ねて

茅ヶ崎に向かう前に小田原で新幹線を降り、北条時代の小田原古城跡を乗っ越して、耳庵松永安左エ門が晩年暮らした老欅荘を訪ねた。今「ろうきょ」と入力すると籠居と出るので、それが還暦を過ぎて耳順うはずだった松永の夢だったと分かる。もちろん写真の通り、屋敷の入口にそびえる老いた欅が表向きの命名の由来で、その姿にも松永は自分を重ね合わせていたのだろう。

私が松永の名を知ったのはやはり小学生の頃、山藤章二の漫画集に松永の訃(1971年)に接して描いたものがあって、それは彼の下半身をめぐる神話(鹿児島の駄菓子のような)を題材にしていた。齢90を過ぎた老人の死がその一点で語られることに、何か爽快な感じがしたことを覚えている。

その後ずっと忘れていたが、2000年前後に現日本社会学会会長町村敬志先生が主宰される佐久間ダムの研究に参加することになったとき、財界人の知識社会学といったテーマで松永の生活史に取り組んでみた。自分では面白かったが、やはり社会学にはならず、試論的な報告書論文を書いてはみたものの、研究会からも脱落してしまった。だから研究会の成果『開発の時間 開発の空間』(2006,東京大学出版会)の共著者リストに私の名前はない。また、その後水木楊氏や橘川武郎氏の優れた評伝が出たので、私が研究を重ねる意味はなくなった。

老欅荘の手前にある記念館に飾られた松永の書の1つに、「人事を盡くして天命に委ねる」とある。「天命を待つ」の記憶違いだろうか。いや、そうではあるまい。あの松永のことだ。待っていられないが、でも生きているうちに実現するような小さいことはしたくないのだ。どこが耳順うだか・・・苦笑。

「電力の鬼」、東京電力を含め、今のどうしようもない電力体制を築いてしまった松永が、原発事故後の日本に生きていたら、どう「人事を盡く」すだろう。私の考えでは、その答は簡単で、今小泉純一郎氏がやっていることそのままにちがいない。

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27年ぶりの交流:中川清先生に会いに行く

私がはじめて日本社会学会で発表したときの司会は中川清先生で、名著『日本の都市下層』(1985,勁草書房)をお手本にしていた私はその僥倖に感激したものだったが、学部や専門分野がちがうこともあって、手紙やメールでのご指導、交流は細々と続いていたものの、一度もお目にかかることなく今日に至っていた。変な言い方だが、研究者としてのプラトニックな(利害や人事のからまない)片思いだったのである。

それが、ご新著『近現代日本の生活経験』(2018,左右社)を拝読したら我慢できなくなって、同志社大学を退職後お住まいの茅ヶ崎まで押しかけた。3時間以上、こちらのぶしつけな質問も含め、濃密な研究交流の時間を過ごすことができた。

あらためて感銘を受けたのは、先生の研究者としての取り組み方の着実さである。『日本の都市下層』から15年後の『近代日本の生活変動』(2000,勁草書房)(書評、日本都市社会学会年報に書かせてもらったので、ウェブで読めます)、さらに18年後のご新著と、徐々に戦線が拡張され、視野が広がり、理論が深まっていく。焼き畑農法的な、あるいは遊牧民的な行き方もあろうが、こうした着実さを、私は引き続き手本としたい。先生の方はさらに地平を広げ、深める研究に取り組まれているとのことで、次のお仕事が楽しみである。

直接お目にかかると、そうした研究を生み出してきた先生の人生についてもうかがうことができ、考えさせられた。こちらが一番聞き出したかった、先生の先生、生活構造論の大成者中鉢正美の人柄と思想も、こちらが期待していたのとはちがったが、納得できるものだった。

もう1つ私にとって大切なご教示は、私は先生のご研究を読みながら、E.デュルケムが『自殺ー社会学的試論』で自殺率をそう扱ったように、社会の現状をひとつかみにできる魔法の「社会的事実」として、家計調査のデータを分析できるはずだと考えてきたのだが、長年のご経験に基づく先生のご高見は、データとしての家計には社会の変化が現れないことが多い、だった。ちょっとがっかりしたのだが、今省みれば全くその通りで、むしろ家計に限らず計量的なデータとはそうしたもの、頭で考える通りには操作できないものだからいいのだ。そのこと自体も、これからの宿題として考えていきたい。

実は先生にお目にかかる前に、海岸の大きなCの字とか、記念館になっている開高健の自宅とか、茅ヶ崎の名所をめぐったのだが、その話はまた次報で。

 

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思い出の歴史家:直木孝次郎氏の訃報に接して

日曜の朝刊に大阪市立大学名誉教授の直木孝次郎氏の訃報が載っていた。享年百。古代史が専門でも趣味でもない私が彼の名を知っているのは、ひとえに小学生の頃欠かさず見ていたNHKのテレビ番組『歴史への招待』による。他にもたくさんのゲストが出ていたはずなのに、今思い出せるのは、常連の樋口清之氏を除けば、直木氏と黒メガネに黒スーツの黒岩重吾氏ぐらいだ。

なぜ覚えているかというと、その語り口がつねに明快だったからだ、子供だから論理的だとか、実証的だとかは分からなかったけれどいつも筋が通っていて、そのうえ挑戦的だった。またその語り口に親しみも感じたのだが、訃報には神戸生まれとあって、納得した。関西弁なんてどこも同じ、ではなくて、大阪には大阪のことばが、神戸には神戸のことばがあるのだ。

訃報には、直木氏が朝日歌壇に入選した歌も引かれている。「特攻は命じた者は安全で命じられたる者だけが死ぬ」。この明快さとおかしみと悲しみ。特攻ではないけれど、同じように命じられた者として人生を壊した私には、心にしみる歌である。しかし、この歌の真意は、「誰からも命じられてはいけない」ということだったのではないだろうか。合掌。

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