喪われた父を求めて:村上春樹「猫を棄てる」を読む

新聞の紹介記事で興味を覚えて、『文藝春秋』最新号に掲載された村上春樹「猫を棄てる―父親について語るときに僕の語ること」を読んでみた。私は村上のファンでなく、先便「『多崎つくる』で町おこし」に記したように、ときどき思いついたように読むだけだ。そしていつも、「うーん、好みじゃないな」と思いつつ読み終える。

しかし、今回は非常に面白かった。紹介記事は回想記としているが、私はこれは一篇のよく作り込まれた小説であると思う。小説として書こうという意志を感じるのだ。

ネタバレにならないように書くと、これは2匹の猫の物語である。1匹は確実な死から生還し、もう1匹は確実な死に至る道の途上に立ち続けている。2匹の猫が何を象徴しているか、明らかだろう。

もちろんそうでない人も多かろうが、私のような、ある種の息子にとって父は永遠の謎であり(魅惑的なというより、厄介な)、相手が死んでも(オイディプス王のように殺しても)、その謎を解き続けなければならない。たとえ解けたとしても、解放感も達成感もない。そうしたことを強く感じさせる作品だった。

これも先便「うちから一番近い城」に記したように、私の記憶違いでなければ、私は中学一年生のとき村上のお父さんに会ったことがある。この小説に出てくるお父さんは、私の記憶のなかのその人と重なり合う。教師であることに人間関係上の快感ではなく、倫理的な使命感を覚えるような人。先生としてはいいかもしれないけれど、お父さんとしてはどうかな。他人のことは言えないが・・・。そういえば、私が愛用していた国語の参考書の執筆者のひとりもお父さんだった。

しかし、なぜ彼はいまこの小説を書く気になったのだろう。やはり改元だろうか。

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昭和の社会学再訪:お世話になった先生方に会う

お1人は約束して、もうお1人は偶然、大学院生時代にお世話になった同業の先生方に、この1週間のうちにお会いした。約束した方は1時間半ほど、偶然の方は立ち話程度だったが、どちらの方にも昔通り親しく接してもらい、懐かしく、うれしかった。

が、家に帰ると、別の感情と考えが湧き起こってくる。若い頃、私はどのように先生方と接していただろう。たぶんこの業界で相応の地位を占めようとして、先生方のお話を純粋に聴くことなく、ただ一所懸命に自分を売り込んでいただろう。そんな青い私、指導学生でもない私に、先生方は常に先生として接してくださった。今も。

また先生方は、当時ちょうど今の私くらいの年齢で、たくさん成果を上げられ、弟子も次々と育てられ、学会の要職もいくつも引き受けられていた。そうした先生方を見て、私もそうなりたいし、いずれそうなるにちがいないと思っていた。しかし今、私は成果なく、弟子少なく、学会からはスピンアウトしてしまった。この落差は何だろう。

もちろん私の卑陋さによるのだが、それだけではない理由が少しはあるような気がする。それは、当時はちょうど戦後日本の社会学がほぼ制度的に成熟した時期で、大風呂敷な「ザ」社会学から、政治社会学、国際社会学といった専門特化した「連字符」社会学(領域社会学ともいう)の方に深化しつつあり、先生方はまさにその前線を担われていたのだった。ところが、こうした昭和の社会学の進化論は、流動化した現代社会にあって破産してしまったように思われる。だから、仮に私が卑陋でなく、先生方のご指導を純粋に学んで努めていても、やはり成果なく、弟子少なく、学会でも重きをなせなかったに違いない。

しかし、である。先生方との再会を反芻しながら、私はもう一度この昭和の「連字符」社会学の意味を積極的に考えようとしている。秋学期の学部生向けの週替わり講義の1回を、「連字符社会学の逆襲」という題で話してみようと思っている。

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ダースベイダーとスーパーマン:NHKETVクラシック音楽館を聴きながら

NHKETVの「クラシック音楽館」、ヴェネズエラ出身の指揮者G.ドゥダメルが指揮するロスアンジェルスフィルの演奏を途中から聴いた。途中からというのは、途中まで総合の方のNHKスペシャル「人体Ⅱ」を首をひねりながら見ていたからである。ゴミ(ジャンク)とか宝物(トレジャー)とか、世界をそうした目線でしか捉えられない幼稚さが実にバカバカしい。私たち社会学者の父祖、E.デュルケムが『社会学的方法の規準』で乗り越えたのは、まさにそうした幼稚さだった。

さて音楽館の方は、J.ウィリアムズの映画音楽プログラムで、フィナーレはもちろん「スター・ウォーズ」、アンコールは意外にも「スーパーマン」だった。意外にもと言ったのは、母国ヴェネズエラが「アメリカ帝国の逆襲」に曝されているときに、その「正義」の象徴である「スーパーマン」もないものだと思ったからだ。もちろん演奏会は3月21日だったから、その時点では合衆国大統領はダースベイダーではなくスーパーマンだったかもしれない。

どうせアメリカ音楽特集を組むなら、A.コープランドにしてほしかったな。異論はあろうが、私はコープランドは南北をつないだ汎アメリカ的な音楽を模索していたと思う。「アパラチアの春」とか、昔は中学の音楽の教科書にも載っていたのに、今聴かないな。一方のJ.ウィリアムズは、金管の響きはコープランドの真似だけれど、全体はまごうことなきグローバルな映画音楽だ。魔法使いだろうがゲイシャだろうが、宇宙戦争だろうが、皆同じである。安心だけれど退屈だ。

とはいえ、好きな「レイダース」になると、これはあのシーン、あれはこのシーン、とうるさくなって、子どもに嫌がられた。子どもに言わせれば、「大きな石が転がってくる映画でしょう」だって。それ最初のシーンだよ、そこから先はつまらなかったの!?

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玉せんで昼ごはん

とくに何をするでもない休日、子どもに「お昼、何にする」と聞くと、「玉せん」という答え。おや、懐かしい。

玉せんは、大判で長円形のえびせんべいを長い方に二つに折り、黄身を潰して両面焼きにした目玉焼きを挟んで、お好みソースとマヨネーズで味付けした、地元以外ではあまり知られていない「名古屋メシ」の1つである。かくいう私も、はじめて知ったのは、子どもの通う学童保育所のバザーの人気メニューだったから。ただし担当はお母さんたちなので作ったことはない。頼んで作り方だけ見せてもらった(ちなみに私自身は綿菓子か焼き鳥の下ごしらえ担当、かき氷も問屋さんまで道具と氷を借りにいきました)。

プロはせんべいを鉄板で焼くらしいが、家では面倒なのでただ折るだけ。目玉焼きを半熟にしたら、子どもから黄身がたれて食べにくいと苦情が・・・。1つでもけっこうお腹が張る、面白いファストフードだ。

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故郷に似た港町:名古屋港の鉄道跳開橋を訪ねて

今シャチで有名な名古屋港水族館があるあたりは昔は臨港線の貨物駅だったそうで、鉄路は埠頭を180度回って北行し、堀川沿いの艀だまりのあたりで終わっていたらしい。その途中、元は運河だったが半分埋め立てて掘割にしたところの口に、写真の鉄道遺産「名古屋港跳上橋」はある。もちろん今は使われていないし、前後の鉄路も撤去されて、ない。

ふと懐かしくなって、春休みに見に行ったのである。懐かしいというのは、私の故郷には、少なくとも今も残る(もちろん使っていない)、運河を渡る鉄道旋回橋(和田岬支線「和田旋回橋」)があり、またすでに残骸だけになっていたが、道路と路面電車が片側に跳ね上がる、これも運河を渡る跳開橋(「高松橋」)もあった。

施設そのものも鉄道ファンには興味深いが、やはり私には自分の故郷が思い出されて懐かしかった。写真右手には、おそらくかつては専用線でクリーム色のホッパ車を出し入れしていた製粉工場が今もあるが、これも和田岬支線と同じである。また倉庫や鉄工場の間に定食屋や喫茶店が散在する街並みそっくりだ。私の故郷は、震災もあって当時の面影をほとんど失ったが、ここにはまだ子供の私を包んでいた空気が流れている。

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私の平成:それはパンドラの箱のように

いつだったか、まだ先代が帳場に立っていたからだいぶ前だろうが、東京神田神保町のカレー店「共栄堂」で遅い昼飯を食べていた。客はほとんど私だけで、小さな音の音楽が流れているのがよく聞こえた。その曲は、團伊玖磨が皇太子(新天皇)ご成婚記念に書いた祝典行進曲だった。「共栄」堂で皇室の「祝典行進曲」、昭和戦前期にタイムスリップしたような気がしたものである。今般の天皇即位関連の報道のなかでこの曲を久しぶりに耳にして、思い出したのである。

まことに畏れ多いことながら、私だけでなく同世代の人びとは、繰り返し報道される新天皇ご夫妻の来歴と自分の来歴を重ね合わせることが多かったのではないだろうか。大卒なら就職30年、私などは大学院に入って30年なので、研究生活30年ということになる。就職、結婚、育児、転職、家族の不和、職場の荒廃、上世代の死、自分の病気(皇后陛下と同じ、と主治医は言った)・・・。亡き父に呼び出され、子供ができないことを叱責されたことなどを思い出す。父は「お前たちはセックスレス夫婦か」と言った。父が低劣だったと言うよりは、誰も時代の変化についていけなかったのだ。上の子に婿を取って家を継がせなさいと、自分も婿を取った祖母は、死の直前に言った。一応社会学者で家と同族団の理論も知っている私は、ただ苦笑するしかなかった。

私の平成、それはまるでパンドラの箱のように。

 

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神保町東京堂書店の「軍艦」:朝日新聞の記事から

朝日新聞4月24日夕刊に神保町東京堂書店の紹介記事が載っている。1階に平積み棚で書架を取り囲んだコーナーがあり、本好きから「軍艦」と呼ばれているとのことだった。若い頃はよく東京堂書店に通ったが、たいていすぐにエスカレーターで専門書のある2階に上がってしまうので、知らなかった。あの頃は、勉強の本は東京堂、趣味の本は書泉グランデだった(芳賀書店じゃありません)。

読書家の先輩が(読書家でない先輩はいなかったが)、神保町なら東京堂と力説していたのを思い出す。この先輩、結婚するときに引っ越しを手伝ったら、下宿にほとんど本がなかったので、人手は私ひとりで済んだ。つまり本を買わずに勉強されていたのである。その先輩の大学の研究室を訪ねると、やはりあまり本がなかった。つい買えるだけ「積ん読」を増やして、同業者の連れ合いからつねに廃棄を迫られている私は、そうした先輩の慎ましやかな勉強の仕方に頭が下がる。その先輩が近頃書かれているものの中身に私はまったく同意できないが、その背後にある勉強の確かさを疑ったことはない。先輩は今も東京堂で書架を眺め、気に入った本を立ち読みされているのだろうか。

もう1つ思い出話を。ある時やはり2階で民俗学の棚を見ていたら隣に個性的な初老の男性が。私たちの世代なら知らないものはいないだろう、ウルトラマンシリーズの名脚本家佐々木守氏だった。佐々木守と民俗学、当たり前と言えば当たり前のつながりだが、でも佐々木氏にとっても、東京堂は大切な情報源だったのだろう。いい本屋とはそうした存在なのだろう。

ところでユーチューブ、1回ミラーマンを見ただけなのに、昔の特撮ばかりリコメンドしてくるのはやめてほしい。

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お帰り、ちきゅう:新幹線の社会学10

「お帰り、ちきゅう。」東海道新幹線が静岡新富士間を通るとき、清水港にときどき巨大な火の見櫓を立てたような船を見ることがある。地球深層探査船「ちきゅう」だ。この間も見たが、その姿は少しさびしそうだった。それもそのはず、南海トラフの深海底の掘削に失敗した後の帰港だったのである。思わず、「お帰り、ちきゅう」と声をかけたくなった。

まるでペットのような人気の「はやぶさ」や、大浴場つき航空母艦「かが」に比べればずっと地味だけれど、『日本沈没』にわくわくしたオジサンは、「ちきゅう」好きだな。がんばれ。未知の世界は宇宙だけじゃないぞ。公費を使うべきは国防だけじゃないぞ。

 

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紙魚のごちそう3:法政大学多摩図書館の個人文庫

今どき退職するときに、大学図書館に本を寄贈すると言っても断られるに決まっているし(今どきはどんどん除籍、捨てられる)、寄贈して役立つような稀覯本を持っているわけもない。でも、昔はちがった。

わが多摩図書館の地下書庫2階は昔の有名な先生たちの個人文庫がいくつも収蔵されていて、借りにいくたびにワクワクする。たとえば、B.マリノフスキの『西太平洋の遠洋航海者』の原典、初版ではないが所蔵していたのは日本史家の石母田正。意外だが納得。経済史家土屋喬雄の『日本資本主義史論集』は、土屋が論敵服部之総に贈ったものが服部の文庫に収められている。服部の方が若輩だから、それは敬意であったろう。ちなみにこの論文集には、土屋が旧制二高の同級生渋澤敬三に勧められて、同じ同級生の有賀喜左衛門と一緒に調査した岩手県のムラ(旧南部二戸郡石神村)のフィールドノートが収められている。

さて今日の発見は、柳田国男の『都市と農村』、今どき岩波文庫でも読めるし、佐藤健二先生が関わられた著作集もあるから、初版で読む必要はないのだけれど、もしやと思って検索したら、何と農学者栗原百壽の個人文庫収蔵。手に取ると初版である。というか、奥付を見るとシリーズ予約販売の非売品だった。戦前の朝日新聞もアコギな商売するね。

栗原百壽は私の先生の先生、福武直へのもっとも先鋭な攻撃者だった。統計もフィールドもできて、硬いマルクス主義者となれば手に負えない。しかし、こうして柳田も読んでいるので、ますますチョロい福武の手には負えなかっただろう。開いてみると、赤線が的確に引いてあって、さすがである。

教師生活あと20年足らず、こんなことだけして暮らして行けたら・・・紙魚の悲しい願いである。

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見よ、妄執の城の跡:岐阜県岩村城に登る

見よ、妄執の城の跡・・・。ここは黒澤明監督の映画で有名な蜘蛛巣城・・・ではなくて、岐阜県恵那市岩村町の岩村城である。ここを訪れるのは二度目。何度見ても、幾重にも細かく積み上げられた石垣が異様だ。何がそうさせたのか。

本丸に登ると、西側は城下の岩村の街並みが一望でき、そこに聳えることが元和偃武後の意味であったろう。が、東側を見ると、谷を隔てて城より高い稜線が連なっていて、それは武田信玄の前線なのだ。城下を通る街道も信濃飯田に直結している。もしあの稜線いっぱいに風林火山の軍旗がはためいたら・・・。それこそ石垣の意味ではなかったか。

城内には井戸があって、危急の時には霧を吐き、城を隠したという。今日は霧は吐いていないかわりに、霰に見舞われた(山間地だけかと思ったら、帰ってきた名古屋でも霰が降った)。

城下に下ると、前の時と違って賑わっている。店先で団子型の五平餅を食べていたら、クラシックカーが通り過ぎた。店の主人が「『半分、青い』に出ていたクルマですよ」と教えてくれた。ああ、それで賑わっているのか。朝ドラ見ないので、知らなかった。

 

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