夏休みの読書感想文:Y.コスチャショーフ『創造された「故郷」』(2019,岩波書店)

ぼくには前からぜひ行ってみたいと思う町があります。その町の名はカリーニングラードといって、ソ連の町です。ソ連はロシアになりましたが、レニングラードのように名前を変えることなく。今もカリーニングラードです。なぜその町に行きたいかというと、算数の本に「一筆書き」の話がのっていて、オイラーという昔のえらい数学者が、この町の中の島にかかる7本の橋を2度渡らずに全部渡れるかどうかという問題を解いたのだそうです。ぼくも7本の橋を渡ってみたいです。後で、この島の真ん中にあった大聖堂には、これも昔のえらい哲学者のカントのお墓があることを知りました。カントはこの町から一歩も出ずに世界の成り立ちについて考えていたそうです。カントの墓もたずねてみたいです。

この夏休み、カリーニングラードについて書かれた『創造された「故郷」』という本を読みました。最初の部分でぼくは泣きそうになりました。ソ連がロシアになって、外国人がこの町に入ってもいいことになったとき、ドイツの老人たちが何人もこの町を訪れ、自分が生まれ育った家を探して歩いたそうです。ソ連になるまではこの町はケーニヒスベルクというドイツの町だったのです。でも、そうした老人たちはみんな悲しげで、昔を取り戻したよろこびとはほど遠かったそうです。ドイツがそこで何をしたか、ナチとかホロコーストとかを思い出すと、老人たちがよろこべないのも分かる気がしました。

ぼくは、山田洋次さんという映画監督が大連での少年時代を話すのや、小澤征爾さんという指揮者が瀋陽での少年時代を話すのをテレビで見たことがあります。2人ともうれしそうでした。それと大ちがいなのでびっくりしました。

この本の大部分は、ケーニヒスベルクではないカリーニングラードの歴史をソ連の人びとがどう創り出したかという話です。そのなかで一番読んでいて苦しくなったのは、はじめてカリーニングラード建設の責任者になったイヴァーノフという人の話です。その人は一生懸命仕事をして、もっと仕事がうまくいくようにスターリンという指導者に手紙を書いたのですが、スターリンに呼び出され、失脚して自殺しました。ぼくは、まるで自分のことを読んでいるような気持ちになりました。ぼくは自殺しようとは思いませんでしたが、生きていても意味がないとは思いました。そう思うようになる筋道がよく分かったので、苦しい気持ちになったのだと思います。

行ってみたいカリニーングラード、でもたぶん行けないと思います。行けないけれど、この本を読んで、少し近くに感じられるようになってよかったと思いました。

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盆踊りの標準理論?:8月14日朝日朝刊投書欄から

お盆である。14日朝日新聞朝刊の見ものは何といっても「首相動静」だ。地元の支持者、関係者のうち亡くなった人への分刻みの弔問。明治大正の昔から代議士の夏休みは地元回りだが(『原敬日記』)、私自身は、軽井沢の別荘のふとんで、深夜赤鉛筆をなめなめ官僚の文書を読んでいた田中角栄を思い出す。

さて今日の本題は投書欄の特集「どう思いますか」で、今回は「盆踊りは必要だと思いますか」に付けられた専門家のコメント。れきはく(国立歴史民俗博物館)の民俗学教授というからには、その道の第一人者なのだろう。曰く「盆踊りは、もともと、先祖の御霊と共にあの世からやってくる無縁の亡者や悪霊を追い払う意味から始まったものです」。ええっ、そんな乱暴な話が、今どきの民俗学の標準理論なの!?

無縁の亡者を追い払うというのがおだやかではない。多くの地方で仏壇の前や庭に飾られてきた「精霊棚」や、寺で執り行われてきた「施餓鬼」は、無縁の亡者を迎え入れ、慰めるためのものだったのではないか。あの靖国神社が、英霊ではない「みたま」をまつるのも同じ意味である。そもそも無縁の亡者とは、横死や客死したひと、そうでなくても跡継ぎの子どもがいなくて死後を祀られないひとをいうのであって(だから誰でもそうなり得るし、現代はどんどん増えている。男の子のいない私もいずれそうなる)、祀らなければさびしくなって悪さをするかもしれないが、悪霊ではないはずだ。イエやムラが縁によって成り立つ以上、有縁が無縁に優越するのは当然だ。しかし無縁を追い払っているだけでは、有縁の社会システムは貧困化し、崩壊する。これはE.デュルケム以来の機能主義社会理論のイロハである。

悪霊だって、平安の朝廷はいざしらず、イエやムラの庶民たちは、火を焚き(大文字)、灯籠を灯して(ねぶた)、ていねいに「送り出し」(虫送り)たり、「流し」(眠り流し)たりしてきたはずだ。それが首相のいう「美しい国」の醇風美俗ではなかったか。

さらに問題なのは、このエラい民俗学の先生は女性らしいが、女性こそは有縁の社会の周縁に置かれ、つねに無縁の恐怖にさらされる存在だったことだ。先日も、夫が死んだ途端に一族から実家に帰れと言われた老婦人のことが記事になっていた(今どき!)。「追い払う」という言葉には、この点への深い思いがない。

ここからは宣伝です。この問題の解説は、何といってもうちの連れ合いの本です。『死の文化の比較社会学』(2006,梓出版社)。ダンナの本同様、日本の社会学に蚊の刺すほどのインパクトも与えなかったが、いい本ですよ。お勧めします。

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国立コンブ研究所:大石圭一『昆布の道』(1987,第一書房)を読む

わが家の出汁昆布はお手軽な日高。バブルの頃実家が贈答でもらっていた、『五辻』の羅臼昆布の黄金の色と味を思い出しながら、「まあ、日高は日高なりに」と使っている。この間ふと安売りしていた山出しを買って使ってみた。結果は、私としては五分五分。出汁はやはり山出しの方がいいように思うが、煮出した後の昆布そのものは(食うなよ!)、日高の方がしっかりしていて食べよい。

同じ昆布でもずいぶん違うのだなと興味を覚えて、地元の図書館で大石圭一『昆布の道』(1987,第一書房)を借りてきて読んでみた。著者は函館生まれ、京大農学部卒の北大水産学部教授(当時)。前半は生物学、水産学的な研究、後半は干昆布をめぐる北方交流史で、広義の今西錦司学派なのかなと思う。前半を読むと、山出し(マコンブ)、日高(ミツイシ)、釧路室(ナガコンブ、食用)、羅臼(エナガオニコンブ)、利尻(リシリ)が、種自体が違っていたり、種は同じでも生態がちがうために商品としては違っていたりすることが分かる。さらにこうしたコンブの分布が親潮と黒潮の境目の複雑な入り組みに従っていることも分かる。

入り組みの境目を知るのに絶好の場所が室蘭の地球岬で、そこに北海道大学海藻研究所があると書いてある。そんなマニアックな国立の研究所があったのかと驚いて、今の北大のホームページを見ると、さすがに今は「北海道大学北方生物圏フィールド科学センター室蘭臨海実験所」という、長ったらしく訳の分からん名前になっている。しかし、こんなマニアックな施設をいくつも持っていては、「独立」法人たる北大の経営が苦しいのもむべなるかな。でもがんばれ、北大。コンブは人間にもラッコにもエゾバフンウニにも役に立つぞ。

後半の北方交流史は、今でこそうちの文学部の小口雅史先生はじめ、考古学的な成果を踏まえ、この30年で著しく研究が進んだ分野だが、87年当時は先駆的な研究だったのではないか。なぜ沖縄で切り昆布の炒め物がよく食べられるのか、なぜ富山で塩昆布がよく食べられるのか。この本を読むとよく分かる。

学生には、宮内泰介先生の『かつお節と日本人』(2013,岩波新書)と一緒に薦めてみよう。

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普茶料理「白雲庵」の味をご家庭で:オクラとミョウガの天ぷら

2011年に京都宇治の黄檗宗萬福寺に参り、門前の「白雲庵」で子どもの頃から憧れだった普茶料理を堪能した(このブログの最初期に記事あり)。なかでも忘れ難かったのが、油じ(滋のさんずいをしょくへんに替えた字)、すなわち天ぷらである。オクラとミョウガを半割にして、貼り合わせて揚げてある。衣は昆布だしで溶いて薄い塩味がつけてあるので、天つゆ不要。オクラの旨味とミョウガの香りが合わさって、実に旨かった。いつかやってみようと思って8年、ついに今日の夕食でやってみた。

ああ、美味しい。ただし衣はコロッケの衣の残りの卵入りで、昆布だしなし。しかし、家族には不評。いわく、ミョウガが固い。たしかに市販のミョウガだとオクラ(家のプランターのは1個ずつしか熟さないので、これも市販)より太いので、オクラと釣り合うところまで皮を剝くべきだった。

また行きたいな、「白雲庵」。

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桑畑三十郎、もうすぐ四十郎だがな:『ゴールデンカムイ』第6巻をめぐる親子の対話

子どもがマンガ『ゴールデンカムイ』にはまっていて、夏休みになったのでコミックスを3冊ずつ貸してもらって読んでいる。面白く進んだが第6巻の後半で引っかかった。ある挿話の筋立てが黒澤明『用心棒』(1961年、東宝)とほとんど同じなのだ。子どもに聞いてみると、「『用心棒』、見たことないから分からん」。そりゃそうだ、というわけで、一緒にBSプレミアムで録画したのを見てみた。再び聞いてみると、「構図とか参考にしたと思うし、作者が好きなのだろうと思うけど、お父さんが言うほど似てないよ」だって。さらに「映画、面白いけど、テンポ遅すぎ」。おやおや、さすが今どきの子ども。黒澤映画のスピードも過去のものだ。

省みれば盗作とか剽窃とか、職業柄こだわりすぎなのかもしれない。昔はじめて論文を発表したとき、親しい先輩から「前田愛(アイドル歌手じゃなくて国文学者」のパクリだな」と言われて傷ついたトラウマかもしれない。そんなこと言うなら、あの先輩もこの先輩も皆見田宗介のパクリじゃん。もう一度真っ白な気持ちで、『ゴールデンカムイ』読み直してみよう。

私とて『用心棒』を封切りで見た世代ではない。私がはじめて見たのは銀座並木座のちっちゃなスクリーンで、リマスターされていないので映像はグチャグチャ、音はボロボロだった。その後、浅草東宝のオールナイトで、本来のシネスコで見ることができた。今はビデオ屋でもネットでもBSでも、いつでも最上質の画面で見られる。その反面「アウラの喪失」ではないけれど、古典へのリスペクトのありようも変貌したのかもしれない。

私自身は、久しぶりに見て、登場人物の語りがどれも「合理的選択」なのに驚いた。封切り当時、この映画が冷戦構造のパロディだという批評があったというが、「合理的選択」理論も冷戦構造の産物だった(A.ラパポート『戦争と平和の理論』岩波新書)。映画では皆合理的に選択した挙げ句主人公以外は滅んでしまうが、現実の世界がそうならなくてよかったと思う。やはり「合理的選択」、ダメですね。

もう一度子どもに、一番印象的なキャラは?と聞くと、「本間先生(藤田進)」。いいぞ、その趣味。

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KとN、2人の次郎の物語:研究ノートから

KとN、2人は同じ1920年生まれの京童、Kは伊勢安濃津の豪商の次男ただし庶子・Nは五条大和大路の商家の次男である。Kは旧制京都一中、Nは旧制京都二中を出て、高校、大学に進んだが、三高京大のK、姫高東大のNと途は離れた。また飛び級やら留年やら浪人やらで、Kが1年早く大学に進み。1943年の学徒出陣の時、3年生のKは9月卒業で入営、2年生のNは国立競技場を一周した後休学(後卒業扱い)、入営した。Kは国内で終戦を迎えたが、Nは中国戦線で死線をさまよった。

KとN、学生時代に同じような生涯の出合いをもつ。まずKは18歳年上の師匠今西錦司と、Nは23歳年上の師匠有賀喜左衛門と、どちらも精神的な父親だった。またKは同年だが兄貴分の梅棹忠夫と、Nは3歳年上の兄貴分福武直と、この兄貴分たちはどちらも戦争に行かず、侵略の最前線で研究をし、かつ戦後その責を問われなかった。

戦後2人は最終的に東京で教職に就く。しかし70年の大学紛争が彼らの職業人生の後半を掻き回す。Kは大学をやめてしまう。ところがその時期にこそ、2人の不朽の業績、KJ法とライフヒストリー(生活史)法が確立されたのである。

川喜田二郎と中野卓、2人の次郎の物語を、私は書いてみようと思っている。

 

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『東京の社会地図』よ、永遠に:倉沢進先生追悼

今日の朝刊が倉沢進先生の死去を伝えていた。享年85。先生は昭和の日本の都市社会学の中心で、高橋勇悦先生とともに東京都立大学を都市社会学の研究センターとして確立された方である。私は、師匠の似田貝香門先生が東京学芸大学時代の倉沢先生の(たぶん最初の)弟子なので、学問上の嫡孫に当たる。ただ、似田貝先生は倉沢先生とある時期から折り合いが悪かったので、私が似田貝先生と折り合いが悪くなったとき、同業者から「歴史は繰り返すだね」と笑われた。実際に学会で、互いに無視し合うご両人から同時に話しかけられて困った記憶がある。

私が最初に先生を知ったのは、はじめて日本社会学会大会に参加したときのことだ。当時徐々にSPSSなど統計ソフトが普及しつつあって(まだパソコンではなく汎用機)、私は使い方を先輩から教わり、他の大学に教えに行くくらいになっていたので、ちょっと天狗になっていた。その部会の発表者は年配の方で、明らかに多変量解析のイロハを知らずに統計資料をこき混ぜてSPSSにぶち込み、分類した内容だった。私は「分析技法がよく分からないので説明してほしい」みたいな質問をしたと思う。当然その方は「SPSSがそう計算したのだから正しいに決まっている」みたいな答え方だった。そのとき「都立大学の倉沢です」と先生が立たれ、「なぜ都市を分類するのか、どのような分類が適切なのかから議論すべきだ」と言われた。会場は、もうこれ以上議論してはならないという雰囲気になった。私は「ああ、これが大先生というものか」と妙に納得した。しかし不勉強な私は、先生があの安田三郎から計量研究の手ほどきを受けたことも、都市分類こそは先生の当初の研究テーマの1つだったことも知らなかったのである。

先生の業績は多岐にわたるが、何といっても私には『東京の社会地図』(1986,東京大学出版会)である。SPSSより前の時代、何でもプログラムを書いて計算していた時代に、東京23区のさまざまな社会統計を何枚もの500メートルメッシュ地図に落とし、都市東京の構造を浮き彫りにした昭和の社会学の傑作である。都市エスノグラフィーという言葉があるが、それが表すような個別の団体や個人の話を聞いているだけでは決して捉えられない、大数的で多様な、しかし構造化された社会こそが都市なのだということを、この研究は教えてくれる。

「僕は福武グループの『駐在さん』だったんだよ。町場の調査を分担していたからね。」背高で、アンパンマンのような大きな丸顔につぶらな瞳。東京っ子らしく、明るく歯切れのよい口跡の先生。今はもうそれを聞くことはできない。合掌。

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6年ぶりの収穫、しかし

豊橋時代から少しずつ植物を育てはじめ、名古屋に越してからも、このブログで紹介してきた通り、クルマのオマケでもらったミニバラはじめ、毎年何かをプランターに植え、花を咲かせたり、実を食べたりしてきた。しかし5年前に病気をし、転地療養のつもりで引っ越してから、長く土いじりをしてこなかった。

今年はふとその気になり、五月の連休に子どもとプランターにバジルとオクラのタネを蒔き、より大きな鉢に1株になってしまったミニバラを植え替え、公園で拾った実から育てたヤブツバキを鉢から出して庭の隅に植えつけた。また豚肉の通信販売(モクモクファーム)のオマケのヒマワリのタネも庭の別の隅に蒔いてみた。

ヤブツバキの新芽にアブラムシが真っ黒にたかり(グロい)、バジルのプランターは野良猫のトイレにされてしまい(どうも下剤として半分食べた上で、やらかしていったらしい)、ミニバラの最初の開花はすべてチュウレンジハバチのイモムシ(大量発生で、これまたグロい)の餌食になったが、何とか皆育っている。

写真は最初になったオクラの実(天ぷらにして、美味しくいただきました)。悲しいことに、花は私が東京に出ているときばかり咲き、帰ってくると散ってしまっている。オクラの花、けっこうきれいなんですけど。

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代打高井:職業人としての私の立ち位置

昨日今日のうちに突然の同僚のトラブルで、学部の仕事を1つ肩代わりすることになった。引き受けながら「うーん、このパターン多いな」と思っている。無理のないようにやっていこう。

昔ある学会で理事になったとき、最初の理事会で先輩の偉い先生が、俺は忙しいからできないと駄々をこね、若輩で偉くない私が常務理事ということになった。何とか2年務めたが、そこは東京中心の学会で、名古屋から通ってい、かつ社会人大学院の授業があるために土曜日曜が動きづらい私にはつらい仕事だった。それから何年か経ってまたその学会で理事になった。今度も別の先輩の有名な先生が、俺は外国に行くから引き受けられないと駄々をこねて、無名の私が常務理事ということになった。その後の理事会では、運営の仕組みが問題になり、これも別の先輩の偉い先生から、なんでこんな非効率な仕組みになのかと非難されたのだが、それはさらに前に事務局担当だったとき、私が名古屋から通っているためにそうなったことだった。むしろ私の方がいいたい。なんで、先輩たちのわがままにつきあい続けなければならないのか。急にむなしくなり、他の理由も重なって、私の心は壊れてしまった。

実は他にも、はっきりとは分からないが、たぶん偉い先輩や有名な先輩が断った「代打」らしい書きものの仕事が何度かあった。どうやら私の職業人としての立ち位置(ベルーフ?)はそういうものらしい。

小学生の頃ファンだった阪急ブレーブスには「代打男高井」という選手がいた。お隣の阪神タイガースにも遠井ゴロちゃんという、足が遅いので代打しか無理、という選手がいた。あの人たちのような感じになれるといいのだけれど。でも、令和の社会は高井や遠井のような存在を昭和の社会のようにリスペクトしてくれるだろうか。使い捨てにするだけじゃないだろうか。

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森と湖のまつりから遠く離れて:子どもとの対話から

子どもがマンガ『ゴールデンカムイ』にはまっていて、その話の相手をしていると、「お父さん、意外に詳しいね」と驚かれる。猟のことを知っているのは、2000年代に岩手県と熊本県の中山間地域に社会調査に通ったときに聞いた話によるのだが、アイヌについてはもっと古い。今の君と同じ年くらいの頃のことだよ。

高校生の頃山口昌男『文化人類学への招待』(岩波新書)を読んで文化人類学者になりたいと思ったが、どうしたらなれるのか分からない。わが校は医学部や法学部に行くための学校で、何学部に行けば文化人類学を学べるのか、何の情報もない。本の奥付に山口が東大出だと書いてあるので、東大に行けばいいのだろうと思ったが(山口が国史出だとは知るよしもない)、模試の成績はまったく足りない。京大はテレビに出てくる梅棹忠夫が嫌なヤツなので問題外。そんなときだ、北大に行ってアイヌの研究をするのはどうだろう、と思いついた。さいわい模試の成績は合格圏内。早速近くの本屋に行って、それらしい本を1冊買ってみた。新谷行『アイヌ民族抵抗史』(三一新書)。

買う本を間違えましたね。新谷行。いわゆる「新左翼の運動家」でした。中身は分からないことだらけで、私は著者宛に質問(詰問)の手紙を書いてしまった。もちろん返事は来なかったけど。でも、グッとくる記述もあった。人類学会大会に乱入した山本多助エカシが、並み居る(形質)人類学者のお歴々に向かって、「学者さんたちには魂がない」と叫んだ。ああ、ほんとうにそうだ。今の私も。

結局北大進学では親を説得することができず、退路を断って猛勉強し、何とか東大にモグり込めた。一年生の夏、部活で羅臼岳に登ることになったとき、札幌で夜汽車を待つ間に地下街の本屋で「地方出版コーナー」というのを見つけた。地方出版という言葉自体が初体験。棚で見つけたのが写真の2冊である。

子どもと話しているときに思い出して、書架の奥の奥から探し出した。30年以上、引っ越しに次ぐ引っ越しのなかでよく捨てずに残していたものだ。あのころの心、魂もこの本のように少しは今の私に残っているといいのだが。

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