「大きい」社会学と「小さい」社会学:歴史社会学批判その3

昔話の「雀のお宿」は、よいお爺さんは舌切り雀から「小さい」つづらをもらい、中身の宝で豊かになるが、悪いお婆さんは「大きい」つづらをむりやり奪い取ったものの、中身はお化けでビックリという話である。さて、先便で歴史社会学を連続して批判してから、ときどき社会学の「大きい」「小さい」について考えている。結論は昔話と同じで、やはり「小さい」社会学の方が宝が詰まっている可能性が高いと思う。

デュルケムの『社会分業論』(今さら『社会的な労働の分割』とか『労働を配分する社会』とは訳せないかな。それならいっそ『宗教生活の原初形態』を『原始宗教論』に改題すれば3部作が「論」で揃うのに・・・)やウェーバーの『プロ倫』は、明らかに「大きい」社会学である。歴史的にも空間的にも対象事例を大きく取っている上に、問題関心も哲学的基礎づけに対抗していて「大きい」。では、現代の私たちがこうした巨人たちを真似できるかというと、少なくとも私のような「小さい」人間には、一応挑戦してみたもののとても無理で、かえってお化けに脅かされる危険の方が大きかった。

お化けというのは、まず「小さい」人間が「大きい」ことを想像すると、たいてい妄想になってしまうことである。文学的空想ならいいが、現実から離れられない社会学にとっては致命的だ。次に「小さい」人間が「大きい」ことを妄想でなく考えるには公共的な知識に頼らざるを得ないが、それを正確に学習、理解することがとても難しい。たとえば中学高校で学んだ歴史や地理の知識を鵜呑みにしてはいけないが、受験秀才ほど得意になって鵜呑みにするし、逆に落ちこぼれは全否定して妄想的なトンデモ本に走ってしまいがちである。いっそう厄介なのは真ん中へんの人びとで、中学高校の勉強を使い捨ての受験ゲームのアイテムくらいにしか考えていない。

さらにこの中学高校の勉強も、昔の教科書はマルクス主義の大先生たちがまったく空気を読まずに好き放題書いていたのが、今では文科省やらマスコミやらネトウヨやら自民党やら、空気を読まなければならない相手が多い上に、元受験秀才の執筆者たちは皆さん空気を読むのがお得意なので、だんだんつまらない「シケ単」みたいになってしまった。私の母校で、私たちの頃使っていた老舗のY社ではなく、最近新しく編集された教科書を採用したと聞いて、今の先生方の勇気と見識に感心したのだが、逆に言えばそれほど中学高校の勉強が危機的なのだ。といって、ひとりの力で、意見の異なる人にも納得してもらえるような公共的な知識を蓄積するのは、「小さい」人間にはやはりとても難しい。「下手な釣りびと」に例えられるように、たくさんの本を積み上げただけで一生終わってしまう。

一方「小さい」社会学も、やり方は色々あるだろう。売れっ子の岸政彦氏流の『断片的なものの社会学』(2015,朝日出版社)もその1つかもしれない(この本がチョロッとデュルケム批判なのは先便で触れた)。本稿では、推薦図書各分野「一冊」居士の私の師匠がかつて薦めてくれた、湯沢雍彦『小さな家族論』(1994,クレス出版)を1つの先例として挙げておきたい。湯沢が「小さな」に含ませた意味は、F.ブローデルの「長期持続」に通じる家族生活のゆるやかな歴史的変化のことだが、しかし決してそうした「大きな」社会学としては語らない、というものである。自分の手元にある事実や資料から、ていねいに考証を進めていくこの本は、家族生活のゆるやかな歴史的変化という結論には異論があるものの、学ぶところがたくさんある。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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「大きい」社会学と「小さい」社会学:歴史社会学批判その3 への1件のフィードバック

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    デュルケム、ウェーバーを「大きい」社会学の巨人とすれば、「小さい」社会学の巨人は何といってもジンメルだろう。ところがこの人、私は全く苦手。だからこの巨人の肩に乗ることができないのである。

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