「かわいい」ものの自由研究:奈良美智展を見る

夏休みの自由研究として、豊田市美術館へ奈良美智展を家族で見に行った。予想よりは混んでいて、駐車場に整理員が出ていた。夏休み中とはいえ平日なので、家族連れの若いお父さん以外の男性客はほとんどいない。中京圏らしく、むしろおじいちゃん、おばあちゃん、お母ちゃんと孫たちという組み合わせが多い(三ちゃんレジャー?)。

私は音楽といわず、演劇といわず、現代と名のつくものが好きなので、奈良美智もまとめてみたいと思っていた。総回顧といったボリュームではなかったが、この作家に対する私の感じみたいなものは確かめられたように思う。

私から見ると、彼が描く「かわいい」(お母ちゃんたちの多くは、やや「義務的に」そうつぶやいていた)少女たちは、彼のなかに彼自身の一部なのであって、同じように性的な雰囲気をまとっていても、そのへんがドガの踊り子とは真逆のように思われた。私はドガの踊り子には共感できるが(性的嗜好の向きは違っても)、奈良の少女像には共感できないし、「かわいい」とも思わない。だって大の男の自画像に(それが筋肉ムキムキでも)かわいいとはいえないでしょう。

ちょっと残念だったのは、構図も彩色もかなり凝って描いたはずの大判の少女像を、時間をかけて見ている人がほどんどいなかったことだ。観客の多くは3ヶ所のインスタレーションに集中し、小部屋に入るところでは整理券が配られていて30分待ち。六本木の草間彌生展の小部屋でも待たずに入れたのに!。もちろん私たちは通過。というより、このインスタレーションは、前に同じ美術館で開かれた森村泰昌展のそれと似ていて、体育館のような展示室自体の構造上仕方ないのかもしれないが、ちょっと鼻白んだからだ。インスタレーションは、この作家の不得手分野かもしれない。

一番印象に残ったのは、常設の所蔵品室(クリムトとか熊谷守一とかあります)が移転させられていて、かわりに奈良グッズ専用のショップになっていたことだ。もちろんここも大盛況。村上隆でもヤノベケンジでも、この世代のアートとは「かわいい」グッズを「売る」ことなのだと痛感させられた。東山魁夷とか梅原龍三郎とか、銀座の画廊で売り買いされる前の世代とも(その最後は千住博の滝の絵だろう、私は知り合いに、その大判の絵を「高いんだよ」と自慢されたことがある)、あるいは佐藤忠良や舟越保武のように、日本中の公共建築物の前に同じ女性の半裸像を並べるのでも(名城公園の片隅には「かわいい」オリエさんの像がある)、さらにダンボールハウスに絵を描いたり、自分の性器の立体コピーを配布する次の世代とも異なる。「かわいい」ものを「売る」、しかし、それはもう過ぎ去りゆく流行なのかもしれない。

その日の夜、NHKBSをつけると、D.ブルーナの回顧番組をやっていた。世界一売れたかもしれない「かわいい」うさこちゃん。私が子どもに買った最初の絵本も「うさこちゃんとどうぶつえん」だった。ブルーナが健全で、奈良がインモラルだとは思わない。でもたぶん多くの人にとって同じように「かわいい」とカテゴライズされる2つの意匠の、「さまざまな」とは片付けられない隔たりに、私は考え込んでしまい、今も考え込んでいる。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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