わが学部のレガシーを送る:水野節夫先生の「最終講義」

長年社会人大学院で質的分析法の講義を担当してくださった水野節夫先生が今年度いっぱいで定年退職される。そこで自分の学部の演習を休講にして、最終回だけ出席させていただいた。ちなみに副題の「最終講義」は言い過ぎで、学部の講義は1月はじめまで続く。

この講義が始まる直前、水野先生は『事例分析への挑戦―’個人’現象への事例媒介的アプローチの試み―』(2000,東信堂)を出版され、そのきわめてオリジナルな「理論と方法」を世に問われた。中野卓先生に始まる日本社会学の生活史研究の第二世代のなかで、先生の立ち位置は孤高である。他の生活史研究者は、まず語りたい対象があって、それを正しく(どちらかというと倫理的に)捉えるための方法が後から練られる。悪く言えばドロナワ式の調査法だ。しかし水野先生は、(こちらは科学的に)正しい分析を実現するために、分析法自体を対象を通して練っていくのである。ただし副題に「’個人’現象」とあるように、本当は「現代社会における個人現象の社会心理学的解明」という、きわめて高度な理論命題が先生の研究には秘められている。方法における禁欲的科学主義と、理論における現代社会の存立構造への挑戦は、水野先生が学ばれた2人の師匠、折原浩先生と見田宗介先生の嫡系である証拠だ。

ご高著ではまだ「事例媒介的アプローチ」と控えめに呼ばれていたのが、20年を経た今では「CM(Case Mediated)法」とはっきりと銘打たれている。それは水野先生が留学中に師事されたA.ストラウスの「GT法」と対照されるもので、データから理論を引き出す前のデータとの出合い、対話を整えるための方法、理論が持ち込みがちな先入見や偏見から、データとの出合い、対話を解放するための方法なのである。

具体的には、それは「なぞり、なぞり返し」と「アイデアの風船飛ばし」の2つのプロセスから成る。前者はデータに出合う調査者の先入見や偏見を洗い落とすために、何度もデータを読み返すことであり、後者もまた調査者の先入見や偏見から自由になるために、アイデアを出し続けていくことである。ちょっと勉強した者なら、この柔らかなネーミングの向こうに、S.フロイトの「自由連想法」や川喜田二郎の「KJ法」の精神を見出すことができるだろう。

先生の熱弁を聴きながら、この方法が単に科学の方法に留まらず、人間論、人間関係論でもあることに、私は深く感銘を受けていた。私たちは、他者とりわけ愛する人に出合うときに、CM法のように出合っているだろうか。自分の欲望を満足させるために、他者を都合よく利用しているだけではないのか。そう考えるとき、水野先生の方法は、限りなくE.レヴィナスの他者の哲学に接近していくように思われたのである。

しかし、である。私にはまだ異論がある。水野先生の方法は、中井久夫風に喩えていうなら、帝国海軍軍令部の図上演習のときに、当時の参謀たちのように「わが皇軍は勝つことになっているのだ」といった最低、最悪の先入見、偏見から解放されるためのものだ。しかし目前の敵艦隊に夜襲をかける水雷戦隊の司令官はそうはいかない。自分の経験、手持ちの艦隊、水兵たちの練度など様々な状況に関する自らの主観的な見通しを通してのみ、目前の戦況は理解される。そうした主観的見通し、先入見や偏見以外の方法はないのだ。もしその方法に欠陥があるのなら、味方の艦や水兵たちを喪いながら、まさに血で贖って修正していく他ないのだ。私は水野先生の科目の前座に当たる科目で、古典的研究がそうした先入見や偏見を通して生産されていくプロセスを追体験できるような演習的授業を行ってきた。それはまさに、水野先生というレガシーとの個人的対話のなかで見出してきたものである。

講義の合間の雑談で、私はなぜかJ.デリダの『歓待について』の面白さを水野先生に語っていた。私はたぶんデリダの思考に、レヴィナス水野先生に対する自分の思考を重ね合わせていたにちがいない。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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