余は如何にして左翼とならざりし乎:久しぶりに三番大教室を訪れて

15年ぶりくらいだろうか、久しぶりに学会の司会をやることになって、母校の建物を訪れた。学部3年から助手をやめるまでつごう8年間暮らしたので、すみずみまで懐かしいけれども、今回とりわけ懐かしかったのは旧三番大教室だ。今は「三友館」と言う名前になり、受付場所として使われていた。

思わず奥に進むと、昔私が入り浸っていた文学部学生自治会室は跡形もなくて、ただ監禁部屋のような「学友会室」という小部屋があるばかりだった。私たちが学生の頃は帝国大学以来の「学友会」は名前だけになっていて、戦後生まれの「学生自治会」さえ、風前の灯火だったが、今はどうなのだろう。

いろいろなことが思い出されてくる。委員長の国語学科の友人から「中筋の考えは代々木的過ぎだ」と批判されて、「代々木的」の意味が分からず悩んだこととか、学生大会の議長を2度務めたのだけれど(本業は会計担当の常務委員)、銀杏並木で宣伝していると、通りかかった法学部に進んだ高校の同級生が「そういうところ、お前のダメなところだよ」と言うので、何がダメなのか分からず悩んだこととか。同級生の女性が「中筋君に頼まれたら、しょうがないわよね」といって「議場委任」しれくれたこととか。冤罪被害者の免田栄さんを学園祭の講演に招いたが、スライド映写機(もう死語!)がタマ(電球)切れで、品川のエルモ社(今もあるのかしら?)まで汗だくで仕入れに行ったこととか。あの、若い私はどこに行ってしまったの?

少し関わっているメーリスにベビーシッターに関する大会運営の不備を批判する発言が相次いでいて、不備自体はたしかに問題だと思う反面、そうした発言にまったく共感できない自分をさびしく思っている。何で共感できないかというと、自分たちでやる/やらないという視点がそこに見出せないからだ。若い頃、子どもたちを預けている学童保育所の運営がたいへんだと先輩の女性研究者に愚痴ったら、「私たちの頃は公営なんてなかったから(ちなみにわが学童も名古屋名物民設民営!)、夏休みなんかお母さんが交替でやって大変だったのよ」と笑われた。年配者のお説教ではあったが、「なるほど自分たちでやるという選択肢もあるんだな」と納得した。逆に、私たちは事実上「自分たちでできないものはできない」でやってきたと思う。地域も職場も手厚くなく、半別居状態で、両方の親の支援もないから、そうするしかなかった。もちろんうまく行かなかったことも多く、ある時私が家族の病気を見捨てて学会に出向いたことは、今でも私たち家族全員の心の傷になっている。

いわゆる「自己責任」で得られたもの、得られなかったもの、子どもたちの幸せ、不幸せ、色々あったろうが、今となってはただそうする他なかったというしかない。一方で、自己責任の「先」にではなく、「前」に社会を問うべきだとは、今の私には考えられないのである。

あの自治会室の時間から今までを省みながら、「余は如何にして左翼とならざりし乎」、少し考えてみたい。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。

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