トロ字?ゲバ字?:田原牧『人間の居場所』を読む

題名に惹かれて、田原牧『人間の居場所』(集英社新書)を読んだ。同じ「居場所」でも、私の願うところとは違っていて、でもどこか共感できる内容だった。こちらの勝手な解釈を押しつけるなら、田原は社会の(マルクーゼ的な)一次元化に対抗する多様性の現存を見出そうとするが、私はそうした多様性を容れる(上野千鶴子的な)「ハコ」を(福井康貴のように)「歴史の中に」見出したかったのである。もし私のいう「群衆の居場所」が一次元化の装置でしかないのなら、田原にとって私は敵でしかないのだが・・・。

田原の好みの言い方では私は彼女より「5学年下」なので、世代的に共感できることも多かった。もちろん秋元康の創り出す集合的アイドルの世界に「夕焼けニャンニャン」以来全く興味をもてないとか、三里塚は知っていても行こうと思ったことはないとか(山谷の越年闘争も誘われたけれど行かなかった)、近い世代だけにかえってはっきりズレることもある。

相変わらず細かいことが気になるのが私の悪い癖で、一箇所、トイレの落書きが「ゲバ字」で書かれていたという表現に引っかかった。ていねいに「ガリ版による政治ビラの字体」と注書きしてある。ああ、やはり「トロ字」でなくて「ゲバ字」なのか。つい最近、職場の同僚から同じ表現を聞いたとき、私は「『トロ字』と言っていたけど」と応えた。さらに、一橋出の同僚と「大学で違うのかねえ」と言い合ったのだ。

私が先輩から聞いた説明では「トロ字」の「トロ」はトロツキストのトロだった。これは正統派(代々木、あるいはスターリニスト)から見た「蔑称」だから、投げ与えられた蔑称をあえて自称とするという、屈折した表現だ。さらに先輩の説明では、正統派は印刷工に支えられているので(『太陽のない街』のように)「ガリを切る」(ロウ(古くはニカワ)が塗られた硫酸紙を鉄筆で削って原版を作ること)必要がないが、非正統派は自分でガリを切り、謄写版を1枚1枚刷り上げるしかない。その手作り感に運動の誇りと希望を懸けているということだった。かなり神話化された説明で、直截な「ゲバ字」に比べるとちょっとモリ過ぎかなと思う。

ここまで書いてきて、パソコン用の「ゲバ字」フォントってあるのかな、と思って検索してみた。最初に出てきたのは、たしかに「ゲバ字」らしい雰囲気を出していたが、ずっと美しく、字ではなくてフォントだった。というか、手書きでなければならない「トロ字」はフォントにはなり得ないのだった。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。

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