成田の空と大地:「空と大地の歴史館」をたずねて

高速バスの停留所案内が「次は三里塚です」というのを聞くと、さっと体が硬くなった。外は畑の中の道にロードサイド店が並ぶ、典型的な日本の郊外の風景だ。そこには暴力のかけらも見られないが、子供の頃の記憶のなかの「三里塚」は、「ダッカ」とか「テルアビブ」と同じ暴力の象徴なのである。

三里塚バス停を通過したバスは唐突に空港区域に行き当たる。禍々しい爪を尖らせた壁が現れるが、すぐに切れて、あとは空港が丸見えだ。昔は機動隊が並んでいたのにな、と思っているうちに、「航空科学博物館前」に着き、バスを降りた。

平日の午前に訪れる人などいまいと思っていたが、「歴史館」に着くと、スーツを着た若い男女の集団が館員の説明を受けている。空港関係会社か何かの研修だろうか。すぐに会議室に消え、館内は私1人になった。

一応「市民運動論」を担当しているが、名前を聞くだけで怖じ気づくような私に三里塚を語る資格はない。ただ尊敬する隅谷三喜男の精神に少しだけ触れたくて、ここに来たのである。歴史書などには「行司役」などと呑気なことが書かれているが、そんなものではなかったはすだ。その上、あの宇澤弘文を片腕に頼む度量(私なら絶対使いこなせない、たぶん「お前、口だけじゃないよな」という使い方、あるいは清水次郎長と森の石松)。いわゆる市民派でない(呼びかけ人とか?・・・笑)、学者の社会への関わり方の1つの「理念型」を、隅谷先生は示してくださったのだと思う。しかし、今後そんな学者がこの国に現れるだろうか?

展示を見ながら感じたのは、むしろ政府の側の感情的かつ暴力的な執拗さである。ほとんどDVだ。いや、喩えではなくて、職場で上司にいびられているお父さんが、腹いせに家でお母さんを殴っているといった風なのだ。それならそんな職場(今からでも)やめればいいのに、というのは後付けの理屈かもしれないが、私はそう思う。「ダイヤ買っちゃった」みたいな「いずも」なんかやめて。「三丁目の夕日」はほんとうはDVの血に染まっていたのだと、それをただ怖がっていた子供の私は思う。

勉強ついでに佐倉市の国立歴史民俗博物館に回って、企画展「1968年」を見た。悪いことはできないもので、こっそり勉強しようと思って行ったのに、入り口で今を時めく社会運動学者の富永京子さんとパートナーの武田俊輔さんにバッタリ。無知がバレるので、「お邪魔でしょうから」とごまかして、さっさと先に回ってしまった。企画展の方では折原先生と見田先生の意見表明のナマ「ガリ版」(笑)、常設展では「洛中洛外図屏風 歴博甲本」が眼福だった。

ところで、帰ってきて湧いた疑問。東京ディズニーランドは、なぜ京成電鉄がやらせてもらえたのだろう。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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成田の空と大地:「空と大地の歴史館」をたずねて への1件のフィードバック

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    この「1968年」企画展の1つの深刻な問題は、2部構成の第2部として「大学という『場』からの問い―全共闘運動の展開」を掲げ、筑波新大学構想の文書も展示しながら、大学がこの時期決定的に「頽廃していく」過程を展示できなかったことにあるのではないか。とくに廃学となった「東京教育大学」から「筑波新大学」に受け継がれなかったものが何だったのか。たとえば柳田国男の指導の下に和歌森太郎が築いた歴史・民俗学の系譜とか(えっ、継承されているって?)あるいは戸田貞三の指導の下に中野卓が築いた社会学の系譜とか。とくにその後に設立された「歴史民俗博物館」は(館長は歴代東大国史の教授たち)こそは、そうした「不気味なもの」に向かい合わなければならないのではないか。もっとも国史は文学部でも代々木色の一番濃い分野なので、全共闘を取り上げただけで快挙とすべきかもしれないが。

    ちなみに私は知っている。私が博士後期課程1年の時、つくば大学で日本社会学会大会が開催された。時の会長は教育大社会学科生え抜きで廃学の時追放された森岡清美先生。懇親会の挨拶で、つくばの主任教授、東大出だが一匹狼の副田義也先生は「歴史の浅い大学で開催させていただき」と謙られた。乾杯の音頭は磯村英一先生、さわやかに微笑まれ、「歴史的和解がなされた」と宣言されたのである。

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