仲良き事は美しき哉:武者小路実篤と社会学

前から気になっていることがある。それは武者小路実篤が東大社会学科の先輩だということだ。ただし1906年入学(学習院高等科からの)の実篤は中退で、なぜ入学し、何を学びたかったのかはまったく分からない。研究上の必要があって『友情』を筑摩書房の文学全集版で読み直したときに巻末年譜を見て気づき、母校の歴史に(も)詳しい佐藤健二先生にたずねたが、よく分からないとのことだった。

実篤は私が子どもの頃にはまだ生きていて、カボチャとナスの色鮮やかな写生に『仲良き事は美しき哉』と添えられた色紙があちこちに出回っていた。子供心に「何かヘンだな、これ」と強く印象に残った。中学になって推薦図書で『友情』を読んだときも、「何かヘンだな、これ」という印象は変わらなかった。つまりは「忘れ難き人」なのである。

最近刊行された前田速夫『「新しき村」の百年』(2017,新潮新書)は、「新しき村」に生まれ育った上、今はベテランの編集者でもある視点から、実篤の実像を余すところなく伝えてくれる好著である。そこにも東大社会学科中退のことは事実が記されているだけである。

竹田篤司『物語「京都学派」』(2012,中公文庫、初版は2001)を読むと、1904年生まれの唐木順三は松本高校時代に高田保馬『社会学原理』を読んだが面白くなく、京都帝大に進んで米田庄太郎の講義を聴いても面白くなく、西田幾多郎の門下に入ったと書いてある(京大は今でも社会学は哲学科の一専攻)。実篤もそうだったろうか。飛ぶ鳥を落とす勢いだったろう35歳の建部遯吾の講義は面白くなかっただろうか。

しかし、その実篤のはじめた白樺派は後世の若者たちに一定の影響を与えた。たとえば諏訪中学の白樺派サークルのなかから、あの有賀喜左衛門(1897年生)が育ってくるのである(ただし有賀は二高から東大は美学科)。

また前田の前掲書を読むと、「新しき村」はまぎれもなく日本のコミューン運動の先駆けで、72年には一燈園、ヤマギシ会、大倭紫陽花邑なども集めた「共同体話し合いの会」が開かれている。このメンバーは真木悠介『気流の鳴る音』(2003,ちくま学芸文庫、初版は1977)と重なるが、真木はなぜか「新しき村」には言及していない。

さらに私の手元の問題がある。例年「市民運動論」の講義で、黒澤明監督の『生きる』(1952,東宝)を市民運動家の理念型として紹介しているのだが、前田の前掲書を読むと、共同脚本の1人の小国英雄は「新しき村」の主要メンバーで、主人公の「渡辺勘治」の名は現地リーダーの「渡辺貫二」から取られたものであるらしい。『生きる』や『七人の侍』が「新しき村」の試みを今に伝えるものであるとは、考えもしなかった。

さらにさらに、もっと私の手元の問題だが、連れ合いに言わせると、若い頃の私は、岸田劉生の描いた有名な「実篤像」に感じが似ていたらしい。本人は、イケメンの志賀直哉のファンだった祖母のせいで「直哉」という名なのだが。

武者小路実篤と社会学、まだ断片的な印象の寄せ集めに過ぎないが、もう少し掘り下げて考えてみたい。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 尊敬する先輩たち, 読書ノート パーマリンク

1 Response to 仲良き事は美しき哉:武者小路実篤と社会学

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    ちなみに、私は高校生の頃から何とはなく「京都学派」が(今西人類学も含めて)嫌いで、三木清もいまだにさっぱり良さが分からない。竹田の前掲書を読むと、ちょうど三木や戸坂や唐木が京大哲学科で西田哲学を学んだ同じ頃、服部之総や喜多野清一や磯村英一が戸田貞三の東大社会学科でマルクス主義にかぶれていたわけである(拙稿「磯村都市社会学の揺籃」『日本都市社会学会年報』16,1998)。後付けの理屈だが、まあ、私は東大社会学科でよかったかな、と思う。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください