わが心の友ラマヌジャン:12月18日「天声人語」から

朝日新聞12月18日朝刊「天声人語」欄に、望月新一京大教授の「ABC予想」証明報道に関わって、インドの伝説的数学者ラマヌジャンの挿話が引かれている。いわく「ラマヌジャンは英国留学中(これが彼の命取りだったが)豆のスープを作ろうとして、豆20粒を何通りに分けられるか気になり、さらに豆の数が何であっても使える公式を求めて没頭した。そして豆のスープは作れなかった」。

不勉強なのでこの話は初耳だったが、私の心に深く響いた。ああ、ここに私の心の友がいる。もちろんラマヌジャンに会ったことがあるはずもなく、数学者でもなく、得手ですらない。でも、この挿話は私が社会学者としてものを考えるときの理想を指し示している。どこが?

第一に、豆20粒が、である。後で想像がどれほど広がるとしても、思考はごく限定された、個性的な現実から始まる。

第二に、何通りに分けられるか、である。唯一絶対の、ではなく多様な答えを1つ1つトライアンドエラーで試していく。それこそ自由に思考することだと思う。

第三に、豆の数が何であっても使える公式、である。限定された現実から始まっても、思考の到達点はそこから自由で、かついつでもそこに戻ってこられる「公式」なのだ。

第四に、スープづくりは失敗した、である。もう何のために考えはじめたのか分からない。思考は有用性の外部にあるといえば格好いいが、要するに役に立たないのである。でも、それはまるであの渡り鳥を射ない古代中国の狩人のようではないか。

30年社会学をやってきて、社会学がそんな学問ではないことは百も承知で、でも私は死ぬまでそういう風に社会学をやっていきたいと切に思う。その最後のときにわが友ラマヌジャンは傍らで微笑んでくれるにちがいない。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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わが心の友ラマヌジャン:12月18日「天声人語」から への2件のフィードバック

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    「渡り鳥を射ない中国古代の狩人」というのは、いわゆる「不射の射」と呼ばれる話で、もとは『列子』、日本では中島敦の「名人伝」で知られている。しかし私がこの話を知ったのは小学生の頃、父の本棚にあったギャートルズの園山俊二の麻雀漫画だった。

  2. 中筋 直哉 のコメント:

    下って22日同紙朝刊、池上彰の「新聞ななめ読み」がこの「証明」のニュースが1面トップであったことに疑問を呈し、これといったニュースのなかった他紙と比べると、蔵出し的記事だったのではないか、と推測している。その上で素人に分からないニュースを伝える(伝えない)ジャーナリズムの難しさについて論じている。この池上の記事は彼には珍しく歯切れの悪いもので、冒頭自分が小川洋子の『博士の愛した数式』が好きだというところから、もう言い訳くさい。「何だこれ、分からん、面白い」といった、岡本太郎的感覚はジャーナリストにとっても第一の原動力のはずで、池上のような手練れのジャーナリストですらそこから議論がはじめられないのは、学校的劣等感のなせるわざではないだろうか。私を含めこの国の多くのエリートにとって、数学(と英語)はそうした学校的劣等感を思い出させる苦杯であるのだろう。

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