『夢』は夢の映画である:『菊と刀』ゼミの今年のスピンアウト企画

今年も2年生の『菊と刀』講読ゼミが数回を残して読み終わったので、残りの時間2つのメディアコンテンツを鑑賞して議論することにした。1つは笈田ヨシ演出のプッチーニのオペラ『蝶々夫人』(2017,NHKBSプレミアムで放映)、もう1つは黒澤明監督の映画『夢』(1990,ワーナー)である。『夢』はたぶん封切りで見て以来だ。

学生たちに感想を聞くと、反原発とか自然保護といったメッセージやストーリーに反応した人が多かった。封切り当時の評もそうで、監督自身が苛立っていたのを覚えている。たしかにメッセージは一見単純明快だから、年寄りのお説教映画と言えなくもない。そう見る限り、映像の美しさを措けば、この映画の映画史的価値は高くない。

しかし、この映画を題名通り夢、メッセージを含む理想という意味ではなく心身現象としての夢を描いたものと考えるなら、単純明快さはむしろ「不気味なもの」の現れ方として見る者の興味を搔き立てる。ただしその「夢判断」はとても難しい。フロイトやユングやラカンを読んで感心しても、いざ自分でやるとなると、そうした先達の方法的態度(目的に沿った対象への接し方の一貫性)を自分のものにするところからしてもう大変である。

とりあえず、母と父に関わる性愛的な夢という、初歩的なところからはじめてみると、いきなり第一話が異人の婚礼を覗き見たことを母に断罪され、追放される夢である。この母の倍賞美津子が異常に冷たく、怖い。第三話の「雪女」の原田美枝子より冷たく、怖い。これら2人の冷たく、怖い女の間に、春の陽光の中にたたずむ、怖くない桃の精の少女が挟まれてい、全八話のうちの女の話は終わりである。第六話の逃げ惑う母親の根岸季衣に倍賞の、第八話の花を捧げる子どもたちのなかに桃の精のモチーフが回想的に繰り返されることはあっても。

父の方はどうだろう。第四話で犬死にさせた兵たちに責められる寺尾聰の中隊長、第五話で理想が絶望であることを示すスコセッシのゴッホ、第六話で知性が社会的な不能をもたらすことを示す井川比佐志の原発技術者、第七話で世界の終末の悪夢から追い返すいかりや長介の鬼、そして第八話で絶望にならない理想を再び語りかける笠智衆の老人。この5人の交錯する空間に、監督の父のイメージが見え隠れしているのではないか。そしてそれはたぶん『姿三四郎』の大河内傳治郎にまで遡れ、以後志村喬が繰り返し演じてきたものである。ただ、この映画に固有なのは、それら父のイメージがすべて死に向けられていることだ。

もう1つ、同性愛的な夢も見出せるかもしれない。第四話で自分が戦死したことが信じられないという頭師佳孝の野口一等兵は、身をエロチックによじらせて訴え、よじらせながら死の暗闇に去って行く。世界に宙づりにされ、身もだえする若い男のイメージは、『野良犬』の三船敏郎と木村功のペアにはじまり、『七人の侍』の菊千代で頂点を築き、『赤ひげ』の加山雄三に完結する、監督の自己愛的自画像なのではないか。

そんなことを漫然と考えながら、しかしそんな話を「社会学」部の正規の授業でしても仕方ないので、「まあ、夢といえばフロイトの『夢判断』ですかね」と入口だけ示して、今年のゼミを終えた。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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