異質な世界のうちに共通性を見出す:渡戸一郎先生の最終講義

先週土曜の午後は、明星大学の渡戸一郎先生の最終講義に出席した。将来自分の最終講義をやる気はなく、他人のも、まあどうでもいいかなと一般的には思うけれど、今回は特別興味深く、勉強になるものだった。

奥田道大先生の門下生は、皆先生の「都市コミュニティ論」をそれぞれ個性的に展開されていて、よい師弟関係とはこういうものなのだろうなと、ダメダメ弟子だった私は思う。なかでも渡戸先生のそれは、グローバル化によって多様化・異質化する世界のうちに「共通性」を見出していくというものである。研究としては前半が移民研究で、後半がNPO論ということになるのだろう。この「共通性を見出す」という論理が、とくに私には興味深かった。というのは、私のようなネオリベ社会学者は、いくら多様化や異質化を擁護しても、そこにどのような社会が現に生起し、また生起すべきなのかを語れない。だから群衆などといった空疎な概念で誤魔化して、結局市場原理主義を野放しにしてしまう。一方、世界の多様性、異質性を認めずに共通性を振りかざすなら、均質性に塗り込められた閉鎖的な共同体をもたらすばかりだ。「異質な世界のうちに共通性を見出す」という論理、運動こそが、市場原理主義でも共同体復古主義でもないコミュニティ形成の鍵なのである。

こうした渡戸都市社会学の「原点」についても詳しく触れられた。それは大学生、大学院生時代の民衆宗教やコミューン運動への関心である。それは遠くイスラエルのキブツに働きに行かれたくらい強いものだった。その点で、渡戸先生が谷富夫先生の名を盟友として挙げられたことは納得できる。80年代に学生時代を過ごした私たちには分からない(私たちの世代のコミューンは自己啓発セミナーのような茶番か、オウム真理教のような暴力でしかない)、70年代の日本社会学のユニークな盛り上がり、日本版「新しい社会運動論」の胎動を想像させる話だった。

渡戸先生は、学会で毀誉褒貶の激しかった若い頃の私に、いつも変わらない笑顔で声を掛けてくださる、数少ない先輩の1人だった。それは本当に有り難かったのだ。だって、ゼミの後輩に面前で無視されるくらいの毀(誉褒)貶ぶりだったから(苦笑)。私はご厚意に甘え、研究休暇の際社会人大学院の代講をお願いした。学生たちの評判が非常によくて、復帰した私はかえって嫌われてしまったくらいである。

最終講義では、そんな渡戸先生と私の共通点を1つ見つけ出すことができた。それは実家がメーカー品を主に扱う(自分のところで作らない)菓子小売商であることだ。先生のご実家は東京郊外の一軒店、うちは神戸の商店街(神戸語では「市場」)の中の店、先生のところは住み込み店員が2人、うちは1人だが、でも、何か他の人には分からないような感覚を共有できたような気がして、楽しい気持ちで帰路についたのである。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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