こんな夢を見た:30代の頃の真実(考えたことを書き足していく)

指導教員に呼び出され、グジグジといつ終わるともしれない叱言を聞かされる。一所懸命に謝り、次はちゃんとやりますと何度も誓う。そこで場面が変わる。私は助手席に妻を乗せて、調査地に向かう途中だ。目の前にはどこまでも満杯のゴミ袋が敷き詰められた道。エンストした車を押して道を進んでいく。

目が覚めて、しみじみとこの夢が30代の頃の真実だったなと思う。高校時代の友人たちから「お前は好きなことを仕事にできていいな」と言われたが、それは好きなことで喰えた場合のことだ。あの頃私は好きなことでは喰えなかったし、そのコツさえ分からなかった。お互い好きでもない人と師弟関係を結び、嫌々言いつかった仕事に嫌味を言われながら生きていた。

子どもたちには、そんな人生は歩んでほしくない。

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少し時間が経って、噛み締めるようにこの夢について考えてみる。

まず夢の敵手は指導教員でなければならないわけではない。父母でもいいし、兄弟でもいいし、病気の原因となった職場のパワハラの敵手でもいいし、いやもう、他の誰でもいいのかもしれない。つまり、私にこの手の攻撃にはまりやすい弱点がある上、この手の攻撃を得意とする人が多いということなのだ。

弱点の方の原因は超自我だ。父母が私をある意味憎んでいて、ずっと憎しみを注入してきたから、子どもの私はその憎しみを受け止めることばかり考え、それに馴致されてしまったということだろう。しかし、私はそれほど憎たらしい子どもだったのだろうか。いや、むしろ彼らに子どもを憎まなければならない理由があったと考えるべきだろう。それは彼らが「自分は(自分の父母に)愛されていない」と思い込んでいたことだ。丸山眞男のいう「抑圧の委譲」である。ただし孫の眼からは、祖父母たちが父母を愛していなかったとは思えない(溺愛していなかったことは確かだが)。だから、この抑圧はより社会的なもの、敗戦・占領と飢餓的貧困のなかでの祖父母たちの無力さとか、アメリカ軍の暴力とかいったものだったのではないか。「おっちゃん ギブミーや、ギブミーしてんか!」というマンタリテが、見田先生のいう意味ではない「現代日本の意識構造」だったのではないか。

もしそうなら、そうした攻撃性を受け止めるのをやめることが、この意識構造を脱臼させる第一歩になるはずだ。(この項続きます)

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 墓場まで持っていかない話, 私の心情と論理 パーマリンク

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