善いサマリア人とは:朝日新聞2月17日特集記事を読んで

朝日新聞2月17日朝刊(13版11頁「オピニオン」)の特集記事「最低限の住まいとは」に、札幌市の共同住宅火事に関する奥田知志牧師の談話が掲載されている。一部分だけ取り出すのは不公平ではあるが、そこに引っかかったのでそこだけ抜き書きすると、「どこも創意工夫しながら、ぎりぎりの運営を続け、スプリンクラーなどつけたくてもつけられない。民間の『善意の限界』が近づいているのを感じます。」北九州の同様の火事の関係者でもある奥田牧師だから言える、貴重な証言である。

これを読んで私がすぐに思い出したのは、『ルカによる福音書』10章の挿話「善いサマリア人(じん)」である(昔は「よきサマリアびと」だったように覚えているが、新共同訳ではちがう)。追い剥ぎに遭って半殺しになった同胞を、聖職者や金持ちは見捨てるが、異邦人のサマリア人は介抱しただけではなく、宿屋に預けて金を前払いし、世話を頼んで去ったという話で、イエスはこれこそ(隣人への)愛であり、永遠の命への途であるという。

奥田牧師の談話を読むまで、私はイエスがサマリア人の善行を執拗なまでに言いつのる意味が分からなかった。しかしそれは、したくてもできないとか、それは限界だ、といった、善行を施す側の理屈を一挙に飛び越えるための仕掛けなのではなかったか。この跳躍が、私にとって福音書を読み物としてはもっとも魅力的なものとすると同時に、行動の指針としてはもっとも近寄りがたいものとしているのである。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 私の心情と論理, 見聞録 パーマリンク

善いサマリア人とは:朝日新聞2月17日特集記事を読んで への1件のフィードバック

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    この記事を読んだある人から、「お前は『奥田牧師は旅人の冷酷な同胞たちではないか、キリスト者としてそれでいいのか』と言いたいのだろうが、それは的外れだ。むしろ支援に行き詰まっている奥田牧師こそ瀕死の旅人であって、その声に耳を傾けないお前こそ冷酷な同胞たちだ」という批判を受けた。確かにその通りだし、そうした考え方こそ、まさに新約聖書的だ。ありがたい批判である。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください