7年目の3月11日:佐倉統東大教授の書評に怒る

7年目の3月11日、私は研究者としても生活者としても震災復興にまったく関わってこなかった。だから今日言えることはほとんどない。しかし朝、寝ぼけまなこで新聞のある書評を読んいたら、怒りがふつふつと湧いてきた。

それは朝日新聞3月11日朝刊(第13版)第12面の、佐倉統東大教授による村中璃子『10万個の子宮』およびP.ブルーム『反共感論』の書評である。前者は反「子宮頸がんワクチン」運動の非科学性を批判する、医師かつジャーナリストの本で、後者は一般人の情動的な共感の限界を指摘し、専門家の客観的で冷静な判断の必要性を述べた心理学の本だそうである。両者を肯定的に紹介した上で、進化生物学者の佐倉は、そんなことは250年前にアダム・スミスが指摘していたことなのに、人間は進歩していないと嘆いてみせる。

私の怒りの原因は、東大のお偉い先生が、他でもないこの日に、近代科学の絶望的失効ではなく、虚妄の優位を脳天気に述べ立てていることにある。7年前東大のお家芸だった、地震の予知物理学も、防災の土木工学も、原発の安全神話もすべて失効したにもかかわらず、佐倉のお仲間たちは恥知らずにもメディアに露出し続け、虚偽の物語を語り続けていたし、今も語り続けているのではないか。それを誰よりも先に批判しなければならないのが「科学技術社会論」なのではないのか。その批判の倫理的根拠は、他でもない「社会」、すなわち佐倉が馬鹿にしている、疑似科学に踊らされ、情動的共感しかできない私たちではないのか。

自分が学んだ母校が昔も今もこんな風であることに、私はひどく傷つく。あんな学校行かなければよかったとさえ思う。もっともそうなると、連れ合いにも出合えず、今の幸福もなかったので、この絶望を転轍して、そうではない生活、そうではない学問、そうではない思想をゆっくりと、しっかりと創り上げていきたいと思う。

ところで、アダム・スミスはそんなこと言っていたっけ?。シンパシーに関する議論は全然ちがう筋書き(情熱的な他者との合一でなく、冷静な他者への理解だけで社会は成り立つ)だったように覚えているが・・・。遠からず『道徳感情論』を読み直してみよう。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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7年目の3月11日:佐倉統東大教授の書評に怒る への2件のフィードバック

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    後で同じ朝刊を読み直したら、1面の「折々のことば」で、鷲田清一がC.レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』の有名な警句、「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」を掲げていた。この日の意味への深い思索をうかがわせる撰だと思う。私は鷲田の仕事はどれも好きではないが、この撰には脱帽した。

  2. 中筋 直哉 のコメント:

    この記事に対してある人から、「お前は親しい人に子宮頸がんをはじめ、がんサバイバーがいないから、そんな呑気で、他人事なことが言えるのだ」と批判された。たしかに、父は肝胆膵がんで、最後は手術で腹の中を空っぽにされて亡くなったが、そのサバイビングのプロセスに、親しく寄り添ったわけではない。また肝胆膵がんは感染症が原因ではない。しかし佐倉は、親しい人が子宮頸がんだから反ワクチン運動に怒り狂っているわけではないだろう。それでは彼自身のいう冷静な科学者の態度とは言えない。それに、親しい人が子宮頸がんである原因はヒトパピローマウィルスそのものではなく、その「感染」(誰から誰へ?)だろう。私はむしろ「感染」の事実をコントロールせずに女性の側に一方的にワクチンを強制する、そんな自己責任社会の(ジェンダー的に)歪んだ構造に異議申し立てしたい。

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