走るひとのからだは:社会学的思考の基礎6

ぼんやり考えごとをしながら桜咲く堤を散歩していると、前から市民ランナーが向かってくる。ああ嫌だな、と思う。狭い道を譲り合うことはけっしてなく、いつも歩いているこちらが譲らなければならない。そのうえカーブだと、つねにこちらが外周に避けなければならない。身体を鍛えるのなら大回りした方がいいはずなのに。そんなことをいつものように考えながら、すれ違いをやり過ごした瞬間、小さな考えが閃いた。

私は群衆研究を身体論によって基礎づけたいと願い、M.メルロー=ポンティを読んで考えてきた。それ自体は孤立的な身体(決して他の身体と溶解しない)が、身体と置き換えられない固さをもった建造環境に囲繞された空間内に大量に集合することが群衆なのであり、そのとき各身体は身体の集合性、すなわちもっとも根底的な(見田先生なら「根柢的な」)意味での「社会」を感受・触知することになるのではないか、というのが私の結論だ。こうした現象を、『群衆の居場所』では「身体の本源的対他相関性」と名付けたところ、ただ故藤田弘夫先生だけが、興味を持ってくださった(「 都市の歴史社会学と都市社会学の学問構造」『社会科学研究』57( 3・4),2006)

しかし、この現象の理解から自由、平等、博愛といった社会の理念までの理論的道程は非常に遠い。当時の私は、身体は集合的なのに精神が互いを孤立化、相克化させると考え、この道程を短絡してしまっていた。そう考えれば、社会学者はルソーのように「群衆へ帰れ」と叫ぶべきだ、ということになる。しかし、それでは身体の片方の側面しか見ていないのではないか、小さな考えとは、この疑問のことである。

走る人の身体は、その速度によって周囲の身体の集合性から離脱し、孤立性に向きあう。私のような運動音痴には、その孤立性は自らの無能を思い知らされるだけなのだが、逆に集合性の桎梏から解放された自由や可能性を感受する人も少なくないにちがいない。それ以上に、集合性からの解放は純粋な自己愛を起動させるにちがいない。それは、身体から独立した精神ではなく、(ホッブズのように考えれば)走る身体に随伴して生じるのである。

さらに走る人の身体は、再び身体の集合性に参入することで他の身体と競合し、優越する可能性も獲得する。ただし、走ることを競合、優越の手段と考えるべきではない。競合、優越は、走ることで「強化された」孤立性と自己愛の産物なのだ。

また、J.ダイアモンド風に言うなら、走ることの獲得は、鉄や、鉄を用いた銃のような武器よりも本源的な、「第三のチンパンジー」の本質(ヒューマン・ネイチャー)ということになるのではないだろうか。

昔萩原朔太郎は「およぐひとのからだはななめにのびる」(「およぐひと」『月に吠える』1917年)と歌った。群衆と都市の詩人となる前、郷土の蔵の中でひたすら自己愛に耽っていた朔太郎の詩精神が十分に充填された作品である。詩人の身体は、水という絶対的な建造環境によって他者から完全に隔離され、競合や優越に汚されない自己の完全性に没頭する。しかし、その身体は「死」に漸近していくばかりではないのか。エロスではなくネクロフェサリー(屍体愛)に過ぎないのではないか。

走る人の身体は、他者の身体と競合的に関わり合いながらも、自己愛に閉塞する。しかし、それは自己の「死」から逃走しつつも、結局は自己の「死」に向かい合わざるを得ない悲しい営みなのではないか。では群衆はそうではないのか。群衆になれば自己の「死」を免れられるのか。結局私は『群衆の居場所』の出発点に、ぼんやりした考えに戻っていったのだった。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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