では、男の子は何をしているのか:河野真太郎『戦う姫、働く少女』を読む

河野真太郎『戦う姫、働く少女』(2017,堀之内出版)を楽しく読んだ。まず題がいい。読む前に結論が分かり、読んだ後も失望しない。話もよく絞られ、取り上げるメディア・コンテンツもオタク的に偏っていないので、著者よりさらにオジサンな私でも見たことがあるものが多くて助かる。もちろん『アナ雪』とか『千と千尋』とか、感動のしどころが違うのだが、そこがかえってこちら側の偏りに気づかせてくれる。今どきは2千円以下で、短い時間で読めて勉強になる本がけっこう多く出ていて、1万円近くもする、枕にするしかないような専門書を買う気がなくなってしまう。

こうした広義のメディア研究を読むとき、いつも感じるのは、メディア経験を文章化して分析するのには熟練と努力が必要だということだ。ネタバレになり過ぎず、冗長にもなり過ぎず、ただあらすじを追うのではなく、見る者の経験の流れを読者に開かれたかたちで書くことは、こうまとめてみるだけで、途方もなく大変な感じがしてくる。そのうえ、いくら好きだといっても、たくさん見るのは目が疲れるし、時間がかかる。私は近頃大きなハードディスクのビデオデッキを手に入れてセッセと録画しているが、ほとんど死蔵だ。ところで社会調査はどうだろう。

こうしたフェミニズム批評を、男が書く、男が読むことにはどんな背景があるのだろう。逆に女や、女でも男でもない人が書いても、こういう風になるのだろうか。私も含め、フェミニズムの消費者は意外と男の一部なのではないか。もしそうだとすると、それはなぜで、そうしたフェミニズムは文字通り女の「実践の社会理論」たり得ているのだろうか。それともオタク用語でいう「女体化」に過ぎないのだろうか。

病気がまだひどかったとき、A.ジョリーの『マレフィセント』を家族で見に行って、いたく感動した。ほとんど感情が死んでいたなか、私が感動したのはほぼ2カ所で、主人公の魔女が夫?の築いた茨の牢獄を突き破るところと、エンドロールでジャズボーカル化されたチャイコフスキーの『眠れる森の美女』のワルツが静かに流れるところだ。後者は、ナレーションは「こうしたお話もありでしょう」と言うものの、古典的物語が繰り返されるところにグッときたのである。ちなみにこうした「物語的快感」を、河野も十分に踏まえている。ところで前者はどうだろう。今省みると、「突き破る」というところが実に石原慎太郎的だ。やはり私の「女体化」の欲望なのだろうか。

では、男の子はどうメディアに表現され、消費されているのだろう。そしてそれを誰が書き、どう論じているのだろう。あんまり面白くなさそうだけれど、ちょっと探して、勉強してみよう。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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