愛弟子の死を悼む

Sさんは、私たちの社会人大学院の3期生で15年前に入学、当時大学の近所の看護学校の教頭先生だった。当時ベテランナースが多く入学していて、別の先生のゼミに集まっていたのに、彼女はなぜか私の指導を受けようと思ったらしい。

最初はうまく行かなかった。私は今よりずっと居丈高で狭量だったし、そんな私を彼女はまるで医局の新米医師のようにあしらった。関係が徐々によくなったのは、看護職者としての彼女の経歴が見えてきて、それとともに彼女の研究テーマが明確になっていき、それに私が興味を惹かれたからである。彼女は戦後日本における看護職の歴史を、職業的専門性の一貫した向上、深化と捉えつつも、その中身は、医師もどきでもお手伝いさんもどきでもない何かであるとし、その向上、深化が少子高齢化する日本社会にとっていっそう必要になるはずなのに、実際の看護教育は医者もどき養成とお手伝いさんもどき養成に乖離、沈滞していることを憂いていた。だから研究テーマは、そうした専門性の形成史を実証的に跡づけることと、そうした専門性を養成する教育プログラムを構築すること、と定められた。もっとも修士論文では、新卒看護師の養成ではなく、ベテランナースの再登用や再教育に重点を置いていた。

修士論文ではアンケート調査とヒアリング調査を重層的に使ったが、アンケートの方はご夫君が発送や整理を全面的に協力されたそうで、私たち教員も同級生たちもそのおしどり夫婦ぶりをうらやんだ。実は彼女とご夫君はわが大学の第二部で知り合ったそうだ。私は他にも二部を出た魅力的な大人を知っている。現官房長官もそうだろう。それは受験生12万人を集めるマス私大の、忘れられた歴史である。

この4月同級生が栄進したので、激励会をやってくれと頼むメールを出したのに、いつものようにすぐに返事が来なかった。変だなと思っていると、その同級生から、彼女が急逝したという知らせが入った。今年古稀、私とほぼ20歳違いである。博士号も得、本も出版し、すべての仕事を辞め、これから悠々自適というところでの死は早すぎる。しかし完全燃焼だったのかもしれない。

彼女は、筑豊直方に生まれ、福岡の看護学校を出た後、草創期の国立がんセンターの看護婦公募に応募して上京した。旧海軍病院の建物で、戦地帰りの医師や看護婦が、治る見込みのない患者たちを研究していた時代のがんセンターである。その後看護教育に転じ、長い間、たくさんの看護婦、看護師を育ててきた。がんセンター時代に法政大学第二部で学士号を得、さらに私たちの大学院で修士号と博士号を得た。博士論文の一部をふくらませた『看護職プロフェッションの誕生』(2017,学研プラス)は、わが国の医療史、看護史の貴重な史料となるだろう。

私は、そうした彼女の人生をこそ、論文にしてほしかった。なぜって、まるで五木寛之の『青春の門』じゃないですか。そういうと、彼女はいつも照れ笑いとともに断られた。いつも前向きで、笑いの絶えなかった彼女はもういない。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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