「教養合戦」を超えて:亀山郁夫・沼野充義『ロシア革命100年の謎』を途中で投げ出す

学生時代、ある素敵な先輩の発言にびっくりした。別の先輩と趣味の話で盛り上がっていたら、「そういう『教養合戦』って、東大生の一番嫌なところ」と言われたのだ。とくに知識の量を競っているつもりはなかったが、好きなものの知識を際限もなく開陳する私たちの会話には、たしかにそうしたフシがあった。何の話かは忘れたが、「教養合戦」という言葉だけが今も頭に残っている。教養って合戦じゃないはずなのに、合戦になりがちだよ。でもそれって嫌らしいかも・・・。

先日亀山郁夫・沼野充義『ロシア革命100年の謎』(河出書房新社,2017)を読んだとき、その言葉を思い出した。勢い込んで読み出して楽しく読んでいたのに、途中を過ぎたあたりから疲れて、飽きて、投げ出してしまったのだが、そのとき思い出したのだ、もちろんロシア・東欧文学研究の最高峰のお二人にはひどく失礼で、また一度だけ入試監督でご一緒したことのある沼野先生が、薄っぺらい受験秀才ではないことは知っている。でも、だからこそ「教養合戦」という言葉のインパクトを思い出したのだ。魅力ある明快な主張や解釈には膨大な教養が必要だけれど、両者はイコールではないし、膨大な教養はかえって明快な主張や解釈を遠ざけてしまうかもしれない。

私たち人文社会系の学者は教養でメシを食っているので、禅僧のように教養など有害無益だと言うつもりはないが(それこそ欺瞞的な教養だろう)、「教養合戦」ではない教養を生み出さなければ、毎年10万人以上の受験生から(事実上、ほぼランダムに)選ばれてくる学生たちと交わることはできないだろう。骨董品にならないよう、新しい脳トレが必要かもしれない。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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