ソーシャルでなくコレクティヴ:私の社会学信条とリーンなベートーヴェン

「クリティカルじゃないんですか?」「うん、リフレクシブ」。先日、矢澤修次郎先生にお目にかかったときの会話である。古稀を越えても、変わらず日本の社会学のグローバル化のフロンティアで活躍される先生の、社会学信条の核心を確かめたくてした質問だった。カントやマルクス・エンゲルス(「批判的批判の批判」!)以来の「クリティカル」ではなくて、A.グールドナーを読み直すことから取り出される「リフレクシブ」は、運動のを通して、更新される「私」を捉えるための、新しい社会運動の社会学の根本概念だ。

では、私はどうだろう。もし若い人に聞かれたら・・・。「ソーシャルじゃないんですか?」「うん、コレクティヴ」。私自身も含む、身体のフラットな集合性にこだわってきた私の答えはこれである。

先日新聞に載っていた(『朝日』5月21日夕刊)諸石幸生氏の推薦文に釣られて、P.シュタンゲルとポケット・フィルハーモニック・オーケストラのベートーヴェン交響曲全集を聴いてみた。聴き始めてすぐに「?」が頭の中に広がっていく。それはC.カツァリスのリストによるピアノ編曲版を聴いたときにも、N響のテレビ中継でR.ノリントン指揮のピリオド奏法の演奏を聴いたときにも感じられなかったものだ。何が?。理由はすぐに分かった。弦楽5部がそれぞれ1人なので(9番のみもう1人増強)、ウィンドオーケストラ+弦楽四重奏といった感じで、響きが全く違うのだ。さらに木金管が皆個人的に演奏するので、バラバラ・スカスカ感がいや増す。ベートーヴェンはこんな響きを求めたのだろうか。

フルトヴェングラーやカラヤンの、弦楽5部が分厚く支える20世紀的名演奏に飽いて、こうした新しい試みが出てくるのだろうが、私には逆に、ベートーヴェンの時代にはこうしたリーンな響きしか聴けなかったとしても、彼の頭の中では20世紀につながるリッチな響きが鳴っていたのであって、だから彼の音楽は、ベルリオーズやワーグナーの誇大オーケストラ妄想を導き出したのだと思う。さらにそのリッチさは、単なる音の大きさではなく、たくさんの人が合わせて弾くこと、つまりフラットでコレクティヴな身体(群)によって生み出されるのだ。そうしたリッチさの上に乗ってはじめて、木金管のソロの個性も、アンサンブルの駆け引きも輝いてくるのだ。

21世紀の社会は、20世紀的なコレクティヴィティを精算すべきなのだろうか。みんな違ってみんないい、なのだろうか。そうではない、と社会学者としての私は思う。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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