もう1つの『坂の上の雲』:2人の有賀の故郷を訪ねて

このブログ『群衆の居場所』をたまたま見つけてくださった、長野県辰野町辰野東小学校の校長先生(3月でご勇退)に招かれて、週末名古屋から日帰りで辰野町の旧朝日町を訪れた。旧朝日町、さらに古くは上伊那郡朝日村平出は、このブログで何度か言及した社会学者有賀喜左衛門(1897-1979)の故郷である。そしてこれもマニアには周知のことだろうが、戦艦大和の最後の艦長で、艦と運命をともにした有賀幸作大佐(死後特進で中将、1897-1945)の故郷でもある。写真は法性神社の前にある有賀艦長の記念碑で、碑文は有賀喜左衛門の撰、字は旧姓が同じ有賀の、画家中川紀元による。碑の有賀艦長は村びとたちの思い出に沿うように脱帽で、まなざしは実家に向けられているそうだ。

その実家は、おデエ(お大尽)様のヤマキ大津屋、有賀喜左衛門家の隣の金物屋だった。2人の有賀は喜左衛門が半年年長で、学年は1年上、同じ朝日尋常小学校、つまり今の辰野東小学校を出て、諏訪中学(現諏訪清陵高校)に進み、寄宿寮で白樺派文学を語り合った。卒業後喜左衛門は仙台の二高に、幸作は江田島の海軍兵学校に進んだのである。そして歴戦の駆逐艦乗りだった幸作は、大戦末期の艦長不足から最大巨艦大和の艦長となり、坊之岬沖に沈んだ。一方の喜左衛門は、戦争協力の過去を隠蔽したい戦後の大学界に招かれて、民主化のための学である日本農村社会学のゴッドファーザー、あるいは後見人となった。

2人の人生を思うとき、それはもう1つの『坂の上の雲』だったように思われてならない。しかしその物語は、坂の向こうの一朶の雲ををめざして駆け上っていくのではなく、その雲が雷雲で、土砂降りのなかを必死に掻き分けていくものだった。ただ、2つの物語に共通するのは、美しい故郷とそこに育まれた文化、米山俊直が「小盆地宇宙」と呼んだような、日本の地域社会のソーシャル・キャピタルである。

校長先生に導かれて、見宗寺にある2人の有賀の墓に詣でた。実は喜左衛門の墓詣りは2度目で、1度目は20年前、当時信州大学に勤めていた、同級生の数土直紀氏のシルビアに乗せてもらって、連れ合いと3人で詣でた。そのとき駐車したAコープの駐車場が、聞けば他ならぬ有賀喜左衛門の屋敷地の跡だったという。今はコンビニになっている。

校長先生のご厚意で、地域の方々や小学校の先生方とも交流できて、名物のホタルが出る前に帰ってしまったものの、充実した一日だった。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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