高原の玉ねぎ畑で1:見田宗介『現代社会はどこに向かうか』を読む

見田宗介先生の新著『現代社会はどこに向かうか―高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書)は、私には先生の個性が凝縮された、しかしまったく「破局的 doomed 」でない「晩年のスタイル late style」の作品と思われた(ちなみに、このアドルノ起源の、E.サイードの用語を日本の社会学に持ち込まれたのは、故奥田道大先生だ)。

私にとって見田先生は「まなざしの地獄」(1973)でも『気流の鳴る音』(1977)でもなく、『現代日本の精神構造』(1965)の、社会調査の天才である。だから『現代社会の理論』(1996)よりも『社会学入門(2006)』よりも、中盤にNHK「日本人の意識」調査(『現代日本人の意識構造 第八版』2015)をグローバルに拡張した知見を組み込んだ、本書こそが興味深い。

個人的な思い出を記すと、大学院の入試の時、私は鈴木栄太郎の不勉強を富永健一先生にとっちめられ、研究者としての心構えの浅さを馬場修一先生に罵倒され、KO寸前だったが、それを救ってくれたのは、見田先生の「でも、社会調査の問題はできていたよ」のひと言だった。そのひと言を心の支えに、今日まで30年近く、私は社会調査法を教えている。

もうひとつの思い出、修士論文の審査の時、明治の民衆のリテラシーの高低(見田先生は自信たっぷりの高見積もり、私はおっかなびっくりの低見積もり)で言い争ったことに倣っていうなら、見田先生は本書で、先進国の価値観、とくに幸福観の上昇方向への収斂を主張されるが、私はノルウェーが「利己的でないこと」を選ぶ人が1980年から2010年にかけて9%から24%に上昇したことや、「決断力・粘り強さ」を選ぶ人が6%から33%に上昇したことに見られる「落差」の大きさをもって、調査設計そのものの正しさを疑ってみたい。いくら何でも初期値が低過ぎだ。でも、そうした反論をいくらでも許してくれそうなところが、見田先生の分析の魅力なのである。

本書の核心的主張は、ロジスティック曲線の右端のように成長が鈍化した先進国の社会では、どこでも「身近な人たちと、和やかな毎日を送る」(NHK調査の第6問「生活目標」の一番人気の選択肢3)といった幸福観が望まれ、またそうした幸福感が実感されてもいる、というものである。この主張は、『現代社会の理論』における「消費の原義」や、『社会学入門』における「交響圏」と重なり合う、後期見田宗介の通奏低音であり、おそらくそれは先生の退官後の充実した生活に裏打ちされているのだろう。

しかし、私は現代社会はその方向には向かわないし、向かうべきでもないと思う。まず身近な人たちとは、かつて市村弘正が『小さなものの諸形態』(1994)で喝破したように「最初の他者」なのであり、原理的に和やかには暮らせない。そこに無理に和やかさを強いれば、必ず欺瞞と暴力が発生する。あるいは和やかさを享受するものと和やかさを提供するもの間に差別と支配を生む。それが20世紀の近代家族の結論だ。だから21世紀の社会は、「みんな(身近ではないたくさんの人びと)と力を合わせて、世の中をよくする(「生活目標」の一番不人気な選択肢4)」方向に向かうし、向かうべきだと思う。それは見田先生のはるか前を行く「孤独な散歩者」J.J.ルソーではなく、「万国の労働者、団結せよ!」と叫び回ったマルクス&エンゲルスの途だ。

ただ、そう考えるのは、私が見田先生とは逆に「破局的な晩年のスタイル」に沈没しつつあるからしれない。その意味で、先日新聞で見かけた、晩年の澁澤龍彦が四谷シモンに語った言葉、「この世は夢で、玉ねぎの皮をむいていくと最後は何もなくなるような、そんなもんなんだよ」が思い出される(朝日新聞2018年7月5日夕刊4面)。そうなのだろうか。いや、やはり見田先生のいうように、この世にはリアルな幸福のかたちがあり、それを手にすることができるのだろうか。この点稿を改めて考えてみたい。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 尊敬する先輩たち, 私の「新しい学問」, 読書ノート パーマリンク

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