文化人類学に惚れ直す:D.グレーバー『官僚制のユートピア』を読む

高校生の頃、山口昌男『文化人類学への招待』(岩波新書、1982)を読んだとき、私はこの学問に一目惚れした。大学に合格したら、最初にマリノフスキ(ー)『西太平洋の遠洋航海者』を読もうと決め、入学後すぐに(昔の『中公バックス 世界の名著』版で)購入したが、山登りに熱中して、実際に読んだのは、山で大怪我をして入院した、渋谷の救急病院のベッドの上だった。入院した日に叔母が差し入れてくれたラジオは、大阪行きの日航機が行方不明だと報じていた。

教養課程の成績が足りなくて文化人類学科には入れず、折原浩先生の講義のイメージだけで社会学科に進んだ。だから今でも「私は社会学者です」と自己紹介するとき、嘘をついているような気がする。もちろん、いまさら文化人類学者になれるはずもはない。

もっとも隣の芝生は青くなかった。趣味で学び続けた文化人類学は、新しくなればなるほど、私にはつまらなくなった。「開発人類学」とか「観光人類学」とか「公共人類学」とか、「アホか」と思うばかりだった。一方で、私が心酔したマリノフスキやレヴィ=ストロース、ベネディクトは馬鹿にされ、打ち捨てられていくように思われた。それが嫌で、社会調査法の授業で、『西太平洋の遠洋航海者』(今は講談社学術文庫版、ただしこれも抄訳)と国分拓『ヤノマミ』(NHK出版,2010)を比較しながら、色香を喪った初恋の女への失恋の歌を歌ってきたのだ。

しかし、突然(老いらくの?)恋はやってきた。D.グレーバー『官僚制のユートピア』(2017,以文社)は、古典的な文化人類学が現代を対象にし、生き生きとした批判的な知識を生産できることを証明している。この本の一番面白いところは、ジェームズ・ボンドとシャーロック・ホームズの(レヴィ=ストロース流)「構造分析」である。イェール大学での講義の事例だそうだが、全く脱帽の明快さと奥深さである。全部紹介、説明することはできないが、一文一文が文化人類学や社会学(レヴィ=ストロースの『今日のトーテミズム』がそうであったように、文化人類学は社会学のライバルである)の古典的知識に裏付けられていて、かつ自由に考察されている。私より5つ年上の、ニューヨーク生まれの著者が、これほど豊富な知的修練を積み重ねてきたことに、私はものすごい美女とすれ違ったときのようなあこがれと陶酔感を感じた。

英語版のウィキペディアを見ると、彼の生まれ育ちは、矢澤修次郎先生の『アメリカ知識人の思想』(東大出版会,1996)にきわめて近いところにある。またイェール大学からLSEというキャリアパスがマリノフスキと真逆なところも興味深い(LSE文化人類学科のホームページのトップは、たぶん今もマリノフスキである)。

1つだけいちゃもんをつけておくと(美女にいたずらするダメ男みたい)、社会運動家でもあるという経歴からして仕方がないことだが、やや左翼に甘すぎる感じがする。左翼と官僚制を分離したい、官僚制から左翼を救出したいというのがこの本の政治的な主張だろうが、ネオリベの私は、それは原理的にも、歴史的にも望み薄だと思う。ただ、それを筋道立てて論じることはまだできないので、ここからは自分の宿題にしたい。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 暴力について, 私の「新しい学問」, 読書ノート パーマリンク

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