「男らしさ」の形成:映画『七人の侍』の私なりの見方

最近、ジェンダー研究を学ぶ若い大学院生の研究を手伝う機会があり、そのなかで自分の男らしさの観念がどのように形成されたか、掘り下げてみることになった。中高生の頃の憧れの存在というテーマで話を聞かれたのだが、私にとってそれはオーケストラの指揮者で、当時は分からなかったが、今省みると、彼らに男らしさの理想を見ていたようだ。でも、カラヤンやバーンスタインではなくてベームだったんだよね、というと、クラシックは知っているが彼らの生前を知らない若い彼は、半分だけ分かったような顔をした。そこで私は、「専門家を支配する専門家ということかも」と言い添えると、やっと納得してくれたようだった。

男にとって男らしさの観念はどう形成されるのだろう。もっと幼い頃に見た特撮映画のヒーローだろうか。先便で取り上げたアメリカの文化人類学者、D.グレーバーの本には、アメコミ・ヒーローの詳細な分析の論文がある。あるいは、私の知人には少なからず馬場・猪木時代のプロレスの熱狂的なファンがいるが、彼らにとって、孤独なプロレスラーの肉と汗こそ、男らしさの源泉なのだろうか。もっと素朴には、お父さん。しかしうちのお父さんは、ちょうど男の子が男になろうとする時期に、原発を売る仕事が忙しくてほとんど家に居なかった。毎晩接待、毎週ゴルフの営業マンが男らしいとは、子どもには残念ながら理解できなかった。

そんなことを考えているとき、ふと黒澤明監督の『七人の侍』のことを思い出した。『七人の侍』は言うまでもなく世界映画史上の傑作で、私自身にとってもベストワンだ。傑作はあらゆる意味で傑作で、あらゆる方面から語れるし、語り尽くされている。だから、これもすでに語られたことかもしれないが、この映画の物語は、誰の目から見、誰の口が語ったものなのか、という見方もできるのではないか。私は、それは最年少の侍、もう少年ではない木村功が演技力で演じきった勝四郎だと思う。だからこれは、彼が見た六人の侍と五人の百姓、つまり十一人の男たちの物語だ。男たちはそれぞれ長所と短所を持ち、仕事や生活のなかで不器用に長所を振り回したり、短所に振り回されたりする。やがてそれぞれの長所短所に導かれるように四人の侍が死に、大人を見つめる少年は大人の間に生きる大人になって、物語は終わる。

死んだ侍たちのうち、私がずっと心惹かれてきたのは、三船敏郎演じる、偽物の侍から最後に本物になって死ぬ菊千代だった。でも、今一番気になるのは、一番影の薄い「二番目の男」、稲葉義男演じる五郎兵衛だ。前はその影の薄さを脚本のミスと思っていたのだが、今は影の薄さこそ、脚本家(橋本忍?)が書きたかったことなのではないかと思っている。一方、未だに理解できないのは、苦しいときに一番必要だと言われながら、苦しいときの前に死んでしまう、千秋実演じる平八だ。

私もまた、東京に出てたくさんの大人の不器用な生き方を見、その間に生きる不器用な大人になったのだ。たくさんの不器用な大人たちのなかで不器用に生きることこそ、男らしさの核心ではないだろうか。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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「男らしさ」の形成:映画『七人の侍』の私なりの見方 への1件のフィードバック

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    最近、前に録画しておいたS.ラトルのベルリン・フィル退任記念のドキュメンタリー番組を見た。全篇でラトルの指揮ぶりがベルリン・フィルハーモニーホールの壁にプロジェクション・マッピング的に映されるという演出である。見ていると、不格好なホールがそれを造ったカラヤンの人生そのものに見え、「かっこよすぎるカラヤン」(谷川俊太郎)もまた、不器用に人生を戦った1人の男だったのだなと思われて、目頭が熱くなった。久しぶりに、小学生の頃寝られなくなるほど感動したカラヤンの「悲愴」(EMIの方)を聴きたくなった。

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