「人生3回大学」説批判:一応20年近く社会人を教えてきた経験から

リフレクシブではなくクリティカルに行きましょう。先便のコメントで取り上げた「人生で3回大学に入るべき」説、まともな大人なら皆失笑して済ますところだろうが、いくら怖いとはいえ、同業者の「まじめな」発言なので、「まじめに」批判したい。

一応彼より長く多く社会人に接してきた経験がある。そこからの結論は、大学の勉強に向いている人もいれば向いていない人もいる、ということだ。大学の勉強は人類が創り出したサブカルチャーの1つに過ぎない。大学でいくら学んでも、百メートルを8秒では走れないし、精妙な味の出汁ひとつ引けない。アスリートやシェフに参考文献の並べ方を教えても無意味だ。そんなカビの生えたような教育をするな、と言うのなら、そうでないなら大学である必要はないでしょう、専門学校を高度化すればいいだけでしょう、と反論したい。明らかに向いていない人が受験してくるのは、この説のような変なアオリがあるからだ。

もちろん本人が大学で学びたいと言うのは自由で、また私たち大学が経営のために学生を集めたいと言うのも自由だ。しかしそのどちらからも「べきだ」という論理は出てこない。それは国力とか国富とかいった観点からしか出てこないのであって、要するに、今流行の「生産性」と同じ論理なのだ。そこに一番噛みつかなければならないのは我らが社会学なのに、本当に恥ずかしい。

また、彼がしきりに強調する「世界史的視野」というのが眉唾だ。師匠受け売りの、世界は「ロジスティック曲線」(左端からはじめゆっくり上がり、中程で急上昇、右端でゆるやかに平坦化する、数式化でき、確率論に応用できる図形の1つ、もちろん社会的な意味はない)の右端にあるという、それ自体根拠きわめて薄弱な史観なのだが、それと「人生3回大学」がどうつながるか、私にはさっぱり分からない。だいたい、(正確なデータではなく)妄想的史観から政策を導き出すのは、ファシズムとかコミュニズムといった前世紀の遺物ではないか。

もう1つ最近の話題にからめて言うと、これは「軽学歴」(いい概念とは思えないが、高卒以下の意味で使われる)の人びとへのさらなる排除や差別につながる発想だ。だから「軽学歴」との「分断」に恐怖する「高学歴」社会学者は、まずこの妄説を強く非難しなければならない。もちろん不本意「軽学歴」の人が再挑戦する可能性は最大限確保すべきだ。でも今どきの軽学歴の人の多くは、大学に行けないのではなく、学校というシステムが嫌いなのだ(私も嫌いです)。

昔大学院に進学したとき、軽学歴の年長の親戚から、「そんなに勉強してどうするんだ」と皮肉られたことがあった。私が思わず「好きだから」と答えたら、その親戚は一瞬虚を突かれたような顔をして、「そうか、好きなら仕方がないな」と納得してくれた。好きでやることにパン作りも学問も変わりはない。問題は学問は権力やカネや差別と結びついていて、その上塗りになる危険性が高いことだ。逆にパン作りの方は好きでやっていない、たとえ好きでもひどい労働環境でやっていることが多い。そこに「学問は楽しいし、儲かるよ」などと言うから、アオリだと言うのである。

最後に1点、私の給料のほとんど学生の授業料から出ている。だから究極のところ、「授業改善アンケート」の点がもっと悪くなったらクビかなと思い、ビクビクしながら毎回のアンケート結果を覗いている。一方、彼の給料の大半は税金だ。1人のタックスペイヤーとして、こんな妄説に税金を払いたくない。ちなみに掲載された雑誌は『国立大学』です。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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