失われた時を求めて:NHKドラマ『透明なゆりかご』を見る

NHKドラマ10の『透明なゆりかご』を毎回夫婦で見ている。海端の小さな産院で働く女子高校生の看護婦見習いの目から見た、出産と中絶の物語だ。うちはどちらの子どもも地方都市の小さな産院で出産したので、すっかり忘れていた出産前後の苦労が思い出されて、夫婦とも言葉を失って凝視している。

ドラマなので、出産も中絶もやや極端な物語が続くが、実際にも淡々と何ごともない出産や中絶というのは多くないに違いない。うちも2人ともいろいろあったし、そもそも結婚した当座は結婚そのものに精一杯で、2人も子どもが出来、その子たちがやがて独立していく人生など、まったく想像もしなかった。

第6回は、私にはとりわけドラマとしてウェルメイドだった。山中のマヨヒガに住む、老「堕胎医」を演じるイッセー尾形が『沈黙』の井上筑後守よりずっとよかった。また英会話学校の電車広告のそばかすの女の子が個性的な俳優さんでもあることにも感動した。物語も演出も、現実と幻想のあわいをていねいに描き出していて、今のところ一番よかったと思う。

全回を通して私が一番感心しているのは、主人公の高校生の所作である。エンドロールに「発達障害指導」とあるので、専門医のチェックが入っているのだろうが、その細々とした奇異な動作の意味に納得し、また自分にもグラデーションのように重なり合う部分もあると気づかされる。最近、学生から「宿題の意味が分からないので、できない」と訴えられ、ハッと気づいて、できるだけ具体的に指示して、何とかやってもらえたことがあった。診察のスケールで「障害」と判定されるかどうかは別として、私たちは皆何ほどか発達「特性」を持っているのであり、それを永く「社会」なるものの力で抑圧してきたのだが、できればそうした抑圧なくに生きられる〈社会〉の方がいい(そう言っては何だけれど、これからはその方が「生産性」も高いと思う)。ドラマの舞台の産院では、皆主人公の「障害」を知っているが、けっして抑圧しない。その点でも、このドラマは現実と幻想(理想)のあわいをていねいに描き出している。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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失われた時を求めて:NHKドラマ『透明なゆりかご』を見る への1件のフィードバック

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    イッセー尾形が素晴らしかったのは、もちろん演技の熟練があるのだろうが、私には、イッセーの「堕胎医」と角替和枝が演じる妻の向こうに、能「高砂」の尉と姥(昔の家の床の間に飾ってあった、ペアのお掃除人形)を幻視できたからだと思う。イッセーや演出家がどれくらいそのことを意識したかは分からないし、物語を何でも神話や民俗の方につなげてしまうことには賛否あろう。でも、テーマがテーマだけに、現代の私たちにとっての尉と姥とは、こんな風なのかもしれないと思った。もっともイッセーの尉は、能の尉というより八重山の「アンガマー」風で、より基層的な感じがでていた。

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