「不気味な」フジ三太郎:作者サトウサンペイ自選集を読む

町の図書館の漫画コーナーの書架を漫然と眺めていたら、サトウサンペイ自選の『フジ三太郎』を見つけた。先便で触れた昭和の「サラリーマン文化」を考えてみたくて、借り出して読んでみた。

読み進めるうちに、だんだん気持ちが悪くなってきた。作品としての『フジ三太郎』は連載開始65年とほぼ私と同じ年で、バブルの絶頂期の91年に四半世紀を超える連載を終えている。毎朝朝日新聞の全国版を彩った、国民的マンガと言えるだろう。私の実家は元々毎日新聞だったが(アサッテ君とマッピラ君)、たぶん私の受験対策(深代淳郎の『天声人語』)だったのだろう、小学校高学年から大学進学で上京して新聞を取らなくなるまで、毎朝『フジ三太郎』に接していたはずである。いや、私だけではなく、何千何万という日本人が毎朝『フジ三太郎』に出合っていたはずである。なのに、なぜ気持ちが悪くなるのか。

原因の1つはおそらく連載を終えようとする作者の自選のせいだ。26年間の連載全体にくらべて、とくに80年代の女性、それも性的な話題が多いのだ(私は、安田講堂の陥落のテレビを、喪章をつけながら、笑いを噛み殺して眺めるフジ三太郎の回を見たことがある)。そのうえ作者の高齢化に連れてエッチな(当時の表現)オヤジ目線がきつくなる一方、男女雇用機会均等法の時代になって世間の風当たりが強くなってきた結果、とくに下品な回が多く選ばれているような気がする。たしか当時すでに揉めていて(サトウサンペイが意地になっていて)、連載終了もそれが原因だったのではなかったか。だから後継の『となりの山田君→ののちゃん』は、作者のいしいひさいちの個性(これまた1つの意地かもしれない)もあって、この四半世紀けっして性的な話題を持ち出さない。

パンチラとかハイレグとか、当時の風俗をそのまま写しているから気持ち悪いのではない。そうした装いの若い女性の身体をなめ回すオヤジ三太郎の視線が、自分にもしっかり擦り込まれていることに気づかされるから気持ち悪いのであり、さらにそうした若い女性を、サトウサンペイが実に上手に、顔は丸く、目は大きく、口は小さく、身体はとっくり型に、まるでラブドールのように描いているから、気持ち悪いのだ。少なくとも私には、私が知らず知らずのうちに身につけたセクシャリティの履歴を見せつけられるような経験であり、『フジ三太郎』はまさにフロイトのいう「不気味なもの」だった。

中西洋先生に意見具申したときは思いつかなかったけれど、この線で「昭和のサラリーマン文化」を考えてみたい。それを上手にやれば、この気持ち悪いセクシャリティから(もう手遅れかもしれないが、死ぬまでには・・・)解放されるにちがいない。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 私の「新しい学問」, 私の心情と論理, 見聞録 パーマリンク

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