国民国家という「鉄の檻」:矢澤修次郎先生とドイツの学者を迎える

矢澤修次郎先生のご提案で、来日したドイツ人社会科学者ミヒャエル・クーン氏の小さなセミナーを本学市谷キャンパスで開催した。いつもながら英語の苦手な私は、聞く方は曖昧なうなずきばかり、質問は Is this a pen? レベルの内容で冷汗三斗だったが、今回はクーン氏の話が今の私の関心に近いように思え、いつもよりちゃんと聞くことができたように思う。

さて、今回のセミナーでいちばん面白く感じたのは、クーン氏が、近代以降の国民国家を考える際重要な課題の1つはそれを支える「知識」を国家自らが生産していることだ、と言ったことだ。これ自体にE.ゲルナーの「高文化」やB.アンダーソンの「想像の共同体」といった古典的指摘から新味はないが、「知識」の中核は社会科学だという指摘は、私にとっては目からウロコだった。つまり私たち社会科学者が国民国家を支えている!。ええっ、社会科学系の学問なんか何の役に立つのか、というのがこの国の風潮で、だから学者たちは皆役に立つフリばかりしているのじゃないのか。ところがどっこい、国民の大多数は大学を含む中高等教育で社会科学系の学問を学ばされるのだし(とくに我らが私大文系)、マスメディアが国民国家のさまざまな問題を語るときも、基本的に社会科学系の学問の用語を使うのである。うがった見方をすれば、「うちの子はダメねえ」といって、子どもに勉強を無理強いする母親のように、わが国家と国民は、私たち怠惰な社会科学者に自分たちを正当化する知識を無理矢理生産させているのだ。

もう1つ面白かったのは、国民国家の支配力の強さについて、矢澤先生がM.ウェーバーの有名な「鉄の檻 iron cage 」の比喩を使って質問された際(もともとは資本主義のことを言っている)、クーン氏がまったくピンとこなかったことだ。もちろんクーン氏の勉強のムラかもしれないし、英訳だから伝わらなかったのかもしれないが(もちろんレクチャーは英語)、私には、かつてW.シュヴェントカーが『マックス・ウェーバーの日本』(2013,みすず書房)で指摘したように、「ドイツ本国では過去の人に過ぎないウェーバーが、なぜか東洋の辺境日本では生き延びている」の例かもしれないと思われた。

もしこの比喩が通じていたとしても、クーン氏は国民国家を「鉄の檻」とは感じていないのかもしれない。まあドイツは連邦制だから・・・。政権与党党首をやめても連邦宰相(首相じゃないよ)を務められるというのもよく分からないし・・・。逆にグローバルに活躍されても足下の「鉄の檻」に鋭敏な嗅覚を保ち続けている矢澤先生の方は、先便で「リフレクシブになってクリティカルじゃなくなったのかも」などと腐したけれども、そんなことは全くなかったので、私はひどくうれしかった。やはり「クリティカル」で行きましょう。「鉄の檻」から自由になるために。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 私の「新しい学問」, 見聞録 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください