四百年前のイエ社会:尾張瀬戸の定光寺を訪ねて

観光キャンペーン便乗企画ではないが、尾張名古屋の「地味な」名所を紹介したい。瀬戸市内から車で10分ほどの里山の中にその寺はある。JR中央線の同じ名の駅からもアプローチ可能だ。地元では紅葉で知られていて、もうすぐ混雑する季節である。

寺というが、訪ねてみると日本の山寺という感じではない。それもそのはず、ここは尾張藩祖徳川義直の墳墓の地であり、かつその位牌を祀る祠堂なのだ。立派な庫裡もあって妙心寺派の禅寺ではあるのだが、外見は宇治の萬福寺や中華街の関帝廟に近い。石柱の墓碑銘も「一品亜相源敬公」と中国風である。なぜそんな概観なのだろうか。説明を見ると(パンフレットは品切れだった)、明から渡来した儒家の指導で建てられたそうだ。でも、なぜ。

ここからは私の勝手な推測。まず義直は父家康の漢籍を形見分けでもらい受けるくらいの学問好きだったから(この話は先便「蓬左文庫」の記事で書いた)、自分の墳墓を中国の意匠で埋めたかったのではないか。そもそも大須観音だって、もっと田舎に残っていた『古事記』の写本を家康がガメてきて、その保管所として建立したくらいだから、三英傑のなかでの家康の個性の1つは学問趣味にあり、それを受け継ごうとしたのではなかったか。

もう1つの推測は、実際に祠堂から墓廟までの階段を上ってみると、配置が日光や久能山とくに久能山に近いことから、義直は家康と同じように神(権現)になろうとしたのではないか、ということである。実際、門の彫り物は左甚五郎作だ。ただ、名古屋城に行けば分かるように、徳川家の神は家康、秀忠、家光の宗家三代だけで、分家の義直にその目はない。他の家なら藩祖は当然神と祀られるのに、である。なりたいがなれない無念さが、中国風という奇体な意匠を選ばせたのではなかったか。

墓廟の脇には、殉死した家臣5人と、その陪臣4人の墓もあって、ものすごい。殉死が禁じられる前の墓廟なのである。

寺の近くの小高い丘からは、はるか名古屋城を望める。ここは名古屋の鬼門(東北)の押さえで、万一落城の際信濃に落ち延びる(信玄が開いた)ルートの起点でもあった。名古屋城とセットでぜひ訪れたい、地味な観光地である。帰りには、瀬戸物直売所もある「道の駅しなの」で瀬戸焼きそばを。ちょっと甘いです。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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