『日本沈没』のセクシャリティ:『日本沈没』を見る(続)

『日本沈没』のセクシャリティ。アカデミックなことを言いたいのではない。単に久しぶりに見てみたら、いしだあゆみがステキだったというだけの話である。

ただ、そのステキさが、性的な意味で自分の「大人の女性」像の基盤にあることに気づいて、それはなぜだったのだろうと思ったのである。当時だから山本リンダでも欧陽菲菲でも、ちあきなおみでもよかったのである。また天地真理でも南沙織でも、アグネスチャンでも(このシリーズは元祖ロリ系)よかったのである。でも、私の場合いしだあゆみだった。今でもふと「街の明かりがとてもきれいね、ヨコハマ」と口ずさんでしまう。

いわゆる「第二次性徴」、体毛が生えたり精通があったりしたのはもう少し後だから、アタマの性徴はその前だったということになる。よく無意識下というけれども、実際に『日本沈没』にラブシーンがあったことは今回見るまでまったく忘れていて、でもいしだあゆみの表情と動きだけはどこかで覚えていたのだ。後年『寅さん』のマドンナとしていしだあゆみが出たとき、山田監督の演出は『寅さん』映画の一線を越え、歴代マドンナ中もっともセクシーと言われたから、私の感じは私だけのものではないのだろう。

『日本沈没』の女性像については、東浩紀氏が『セカイからもっと近くに』(2013,東京創元社)で映画ではなく原作に即して詳細に論じていて、その論旨はいしだあゆみが演じるヒロインに冷たい。彼女は一見新しい女に見えて、実は息子から見みた古い母のイメージの焼き直しであり、21世紀にそれは持続不可能だというのだ。私はその論旨を理解できるものの、たぶん「生理的に」同意できないし、アタマでも半分は同意できない。きっと私より若い東氏は映画をリアルタイムで見ていないし、後で見たとしても、いしだあゆみに性的な魅力を感じなかったのだろう。しかし少なくとも私にとっていしだあゆみの醸していた性的な魅力は、東氏の言うような母なるものへの回帰ではなくて母なるものからの離陸だったのであり、実際に上京してから今に至る人生の根源的な力の1つだったのである。

あらあら、何かアカデミックな文体になっていますが、要はいしだあゆみ、トラウマですということなんでしょう。ところで、いしだあゆみ、今どうしているんでしょうね。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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