フロイトによってフロイトとともにフロイトのうちに:自分の病歴を省みる

「フロイトによってフロイトとともにフロイトのうちに」これはカトリックのミサにおける司祭の言葉のパクリだが、近頃自分の病歴を少しずつ省みたくなって、うつ病や適応障害についての精神科医の書いた本や経験者の手記を読んでいる。そのときに気になるのが、病気の原因を幼児体験に求めること、まさにフロイトの方法である。

現在の問題の背景に、現在に至る歴史的累積を探り出し、それも誰かがではなく、自分で探り出し、その探り出す過程を通して自分の現在の問題への取り組み方を抜本的に変え、それによって問題を乗り越えていく、治癒していく、というのがフロイトの方法のキモだと、私は思っている。無意識とか肛門期的性格とか、死の欲動といった概念は、探り出しのためにフロイトが思いついた便宜的な道具に過ぎず、そうした概念そのものの解明や実証を目的とするアカデミックな学問とは、それは根本的に異なる思考の方法だ。フロイトは当事者ではなかったけれども(いや、半ば当事者であったかも)、彼の方法は、今でいう当事者研究のはじまりであり、今も当事者研究の指針になり得るものなのではないだろうか。

その一方で、病気の原因を幼児体験に求めるという、より具体的な治療方針には功罪あるような気がしてならない。それは精神分析大国アメリカでかつて言われたような、現在の親子関係を破壊するという意味ではなくて(別に破壊してもいいだろう、親子といっても他人の始まり)、不幸な幼児体験を発見したからといって、だからどうなるというのだ、という問題である。今さら幸福な幼児体験に取り替えることはできないし、投薬で消去されるものでもない。今読んでいる本の中でタチの悪いものは、原因は幼児体験と断定し、治療は投薬で症状をコントロール、みたいなものが多い。治療者からのこうした介入は、当事者の過去も否定し、現在も否定するという意味で、二重の破壊行為なのではないかと思う。少なくとも、それはフロイトの方法ではないだろう。

では、治療者ではない当事者としての私はどうすればいいのだろう。まだ全然詰め切れていないのだが、それは「問題の起源から再度人生を下行して、で自分の歴史(物語)を自分の手で作る」ということなのではないだろうか。ここからはフロイトから離陸して、ユング派の箱庭療法や、マルクスの史的唯物論や、デリダの脱構築の方に考えを進めていくべきなのだろう。問題はその物語を欺瞞でないもの、他者から承認されたパブリックなものとするにはどうすればいいかだが、その作業にこそ、治療者ならぬ支援者としての医師やカウンセラーが関わるべきなのではないか。

自分の病気のことを考えているようで、実は自分にとっての研究や教育という仕事の意味を考えていたようだ。相変わらず、訳の分からない、どうでもいいようなことばかり書いていますが、読んでくださってありがとうございます。来年もよろしくお願いいたします。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 私の「新しい学問」, 私の心情と論理 パーマリンク

2 Responses to フロイトによってフロイトとともにフロイトのうちに:自分の病歴を省みる

  1. 09e21 のコメント:

    先生、ご無沙汰しております。当該疾患についてはむやみにお考えをめぐらせなさらないのも治療のうちです。職務とは逆行するかもしれませんが、どうか健やかにお過ごしくださいませ。

    • 中筋 直哉 のコメント:

      09e21さん、コメントとお気遣いありがとうございます。たしかに、何でも考えてしまうのも、職業病の一種ですね。考えることがいいことだという思い込み、それは多分に競争的なプライドに関わっていて、あまり誉められたものではない気がします。年末年始にガブリエルとかハラリとか、外国の人がテレビでペラペラしゃべっているのを聞いてうんざりしました。まず心身の健康第一に過ごそうと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください