生きているマンガの神様:歴史秘話ヒストリア「ぼくはアニメの虫」を見る

NHK総合の歴史秘話ヒストリア「ぼくはアニメの虫 手塚治虫がやりたかったこと」を子どもと見た。見終わって子供が「マンガの神様が動いているの、はじめて見た」と、しみじみ言った。21世紀生まれの子どもには、たしかにマンガの神様はベートーヴェンと同じ歴史上の人物でしかない。マンガが好きで、近頃は『ゴールデンカムイ』にはまっている子どもは、もっと小さい頃、私の本棚にある『紙の砦』を何度も読んだらしい。

私自身は、最晩年の神様の講演を2度聞いたことがある。1度は番組でも再三引用されていた「朝日賞」の記念講演だった。はっきり覚えているのだが、そのとき手塚は「宮崎(駿)さんは私が日本のアニメをダメにしたと言うのです。皆さんもそう思いますか」と、祝いの席なのに怒り狂っていた。私はすでに神様の「後輩嫉妬症」を水木しげるのエッセーなどで知っていたので、驚きはしなかったけれど、その怒りに別の印象を受けた。1つは、『風の谷のナウシカ』にしても『天空の城ラピュタ』にしても(『となりのトトロ』はまだ見ていなかった)、全然ピンとこなかった私は(東映まんがまつりの延長?つまり、どれも新しくない)、神様が宮崎を高く評価する意味が分からなかったのだ。もう1つは、その怒りに出口がないようにみえ、目の前のやせ衰えた神様の命が短くないことをひしひしと感じさせたことだ。まだ還暦を過ぎたばかりだったのに。

どちらの講演だったか忘れたが、神様はこうも言っていた。「ぼくのマンガのいのちは曲線なんです。一気にペンで書くのですが、その曲線が年をとって書けなくなってきた。書けなくなったらぼくのマンガはお終いだと思っています」。これも私には疑問で、年長の水木しげるはますます細密さを極めていったのだから(岩波新書の『妖怪画談』など)、年をとったから絵が描けなくなることはないのではないか、と思ったのだ。しかし、後で考えてみると、たとえば死に際のR.ゼルキンのベートーヴェンのピアノ・ソナタ32番は素晴らしかったが、還暦過ぎた後のI.スターンのヴァイオリンはどれもひどいものだった。野口晴哉のいう「体癖」によって、身体の老化は違ってくるのだろう(水木やゼルキンは上下型、手塚やスターンは捻れ型、上下型は頭が元気ならいつまでも元気、捻れ型は腰が弱るとダメ)。

去年授業の準備で昔録画した司馬遼太郎が語る姿を見直したときもそう思ったのだが、昔は関西オリジンの知識人がいっぱいいて、皆関西人の身体と言葉をフルに使って芸術や思想を語っていた。最近亡くなった梅原猛もそうだったし、開高健も小松左京もそうだった。皆死んでしまい、今誰がいるのだろう。来たるべき大阪万博は誰が考えるのだろう。やっぱりブラック電通だろうか。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 私の心情と論理, 見聞録 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください