うちから一番近い城:中根城まで散歩する

尾張名古屋は城でもつ、といっても、今日の話題は名古屋城ではなくて中根城である。うちから散歩して30分、一応区役所が立てた看板があるが、遺構らしきものは全くない。ウェブで調べると、3つの曲輪があったらしく、一番高い上の曲輪は小学校に、平らな中の曲輪はドラッグストアに、南の崖に面した下の曲輪は寺と神社になっている。城主は織田信長の弟の信照という人だったようだが、それ誰?、である。

ただ、下の曲輪から見ると南の崖下には沖積平野が広がっていて、対岸は桶狭間に続く丘陵である。この平野、古代は「年魚(あゆち)潟」だった。その水際をいつの時代も国の東西を結ぶ街道が通っていて、鎌倉街道沿いには古鳴海の地名が、現在の海岸により近くなった東海道沿いには鳴海の地名がある。街道と国境を見張る意味で、城を建てる意味があったのだろう。

うちの場所もけっこう高台で見晴らしがいいので、日清戦争前の大演習の時、明治天皇が野立ちされた場所ということで、御幸山(みゆきやま)という名前が付いている。しかし城跡ではないらしい。何が違うのだろう。素人歴史家の推測だと、井戸が掘れるかどうかではないか。うちの土地は乾いていて井戸は無理だ。中根城には今も井戸があるらしい。そう言えば、昔住んでいた豊橋の土地は小さな崖からも水が湧いていたが、すぐ近くに仁連木城という戸田氏発祥の城があった。

また区役所の立てた看板で、ここが重要文化財の中根銅鐸の出土地と知れる。ということは、古墳を利用して建てられたのだろうか。古墳もこの平野の周りに点々とあるが、なかでも北の端の「談夫山古墳」と南の端の「名和古墳群」は有名だ。どちらも熱田神宮の発祥に関わっている。

中根銅鐸、中学生の頃に見たはずだが記憶にない。所蔵している辰馬考古資料館に、甲陽学院に入った塾の友だちに連れて行かれた、館長さんが出てきて案内してくれたのだが、銅鐸の方は記憶にない。館長さんの方は、友人が有名な作家のお父さんなんだぞ、と言ったので覚えている。その頃はまだ駆け出しだったろう、村上春樹のお父さんだった。

散歩の途中の道は、パチンコの京楽のオフィスや工場がいっぱいある。これも名古屋らしいところだ。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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