三度目のみんぱく:国立民族学博物館への疑問

一度目は高校2年生の時。文化人類学者になりたいと言い出した息子に、父は「じゃあ、どんなもんか見に行くか」と言って、祖父母も一緒に家族で繰り出した。二度目は今の職場での最初のゼミ合宿。まだサンプラザが万博記念公園にもあって安く宿泊できたので、学生たちを連れ出した。そして今回、授業でグローバリゼーションとナショナリズムの絡み合いの例として、国立博物館がどう変わっていくのか論じている。今年は歴博。来年はこの訪問をネタにみんぱく。再来年は白老のアイヌ博の予定(まだできていないかも)。

一度目の時は入り口に「アマゾンの干し首」が飾ってあった。今じゃ絶対NGだが、当時は川口浩的血湧き肉躍る導入だった。あの干し首、今でも収蔵庫にあるのだろうか。二度目の時はフィリピンで新品を買ったらしいピカピカのジープニーが飾ってあった。ジープニーがなんで「民族学」なのか説明が足りず、研究者の自己満足に思えて腹が立った(今も展示されているが、古寂びていい風情になっている)。今回一番感銘を受けたのは、中央アジア(何とかスタン)やシベリア(チュクチ)の展示が大幅拡充されたことである。一度目の頃はまだソ連時代で無理だったのが、ソ連が崩壊して30年、社会主義すら展示の一要素になっている。

今回の私のいちゃもんは、2つある。1つめは、ホームページやパンフレットに記された「博物館をもった研究所」という文言だ。ええっ、「研究所をもった博物館」じゃないの?。上野の科博が「博物館をもった研究所」と言ったらおかしいでしょう。あるいは私たち大学が「教育機能をもった研究機関」と言ったらおかしいでしょう。だいたいそんなこと、いつ国会で決めたの?。一方で、入り口には「みんなの博物館」と書いてあって、ご愛敬。当たり前でしょう。国税でやっているんだから。何か勘違いしてるんじゃないのかな、ここの先生たち。

2つめは、民族学という名前、もうそろそろお終いにしたら、というものだ。大林太良先生が亡くなられた後「民族学者」を名乗る人はもういないはずだ。文科省の研究費の区分にもないでしょう。いや「大日本帝国」と同じ歴史的な用語だからいいのだ、というのなら、最初に「民族学って何だったのか」を現代の水準でクリティカルに説明しておいてほしい。もっとも、私は「人類学博物館」になればいいと思っているわけではない。渋澤敬三の邸宅の屋根裏の博物館からずっと積み重ねられてきた資料と研究は、やはり「民族学」という名がふさわしい。

いっそのこと、「アーリア民族コーナー」とか作ったらどうでしょう。親衛隊の軍服を飾ってフルトヴェングラーのマイスタージンガーを流すとか。

ちょっと寂しかったのは、シンボルマーク。たぶん梅の花を意匠化したデザインで、創設者「梅」棹忠夫先生を記念するものだったのだろうけれど、どこにも梅棹の顕彰コーナーがない上、マーク自体もほとんど使われなくなっている。渋澤にしろ梅棹にしろ、もっと歴史を大事にした方がいいと思う。でないと、自分たちも忘れられちゃうよ。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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