喪われた父を求めて:村上春樹「猫を棄てる」を読む

新聞の紹介記事で興味を覚えて、『文藝春秋』最新号に掲載された村上春樹「猫を棄てる―父親について語るときに僕の語ること」を読んでみた。私は村上のファンでなく、先便「『多崎つくる』で町おこし」に記したように、ときどき思いついたように読むだけだ。そしていつも、「うーん、好みじゃないな」と思いつつ読み終える。

しかし、今回は非常に面白かった。紹介記事は回想記としているが、私はこれは一篇のよく作り込まれた小説であると思う。小説として書こうという意志を感じるのだ。

ネタバレにならないように書くと、これは2匹の猫の物語である。1匹は確実な死から生還し、もう1匹は確実な死に至る道の途上に立ち続けている。2匹の猫が何を象徴しているか、明らかだろう。

もちろんそうでない人も多かろうが、私のような、ある種の息子にとって父は永遠の謎であり(魅惑的なというより、厄介な)、相手が死んでも(オイディプス王のように殺しても)、その謎を解き続けなければならない。たとえ解けたとしても、解放感も達成感もない。そうしたことを強く感じさせる作品だった。

これも先便「うちから一番近い城」に記したように、私の記憶違いでなければ、私は中学一年生のとき村上のお父さんに会ったことがある。この小説に出てくるお父さんは、私の記憶のなかのその人と重なり合う。教師であることに人間関係上の快感ではなく、倫理的な使命感を覚えるような人。先生としてはいいかもしれないけれど、お父さんとしてはどうかな。他人のことは言えないが・・・。そういえば、私が愛用していた国語の参考書の執筆者のひとりもお父さんだった。

しかし、なぜ彼はいまこの小説を書く気になったのだろう。やはり改元だろうか。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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