アルプスの少女のサイコ・ヒストリー:「喪の仕事」の続き

今NHKETV月曜夜の『100分で名著』シリーズは『アルプスの少女ハイジ』がテーマで、同世代の伊集院光の思い入れといい、朗読の安達祐実のテクニックといい、松永美穂早大教授の解説の的確さといい、出色の出来と思われるが、見ている私は、やはりずっと亡父のことを考えていた。

亡父はアニメのハイジが大好きで、時間が許す限り家族と一緒に見ていた。ということはチャンネル権はそこにあるので、後半他局で『宇宙戦艦ヤマト』が始まったが、見られなかった。小学二年生の私は、そのことを不審にも恨みにも思っていた。たしかに亡父は、中学生の頃手塚治虫に心酔し、大阪松屋町の問屋で新作を仕入れてうちの店で売り、また弟子入りしようと自宅の前まで行ったが足が竦んで、そのまま帰ってきたと言っていたから、アニメは好きだったのだ。でもなぜヤマトではなくハイジだったのか。

『100分で名著』を見ていて気づいた。それは彼の学童疎開の体験と重なり合っていたからだ、と。元気なうちにちゃんと聞き取っておけば良かったが、もうかなわないので、断片的な思い出話をつないでみると・・・。

おそらく1944年4月、小学校入学と同時に、都市部の他の子どもたちと同様、彼も婿養子の彼の父(私の祖父)の縁故を頼って兵庫県今田村(現篠山市)に疎開した。連れてきた両親が帰る時間になると、伯父(祖父の次兄)が彼を山遊びに誘った。山の上から見ると、村の道を両親が歩いて帰っていくのが見える。そのときの寂しさを伯父が黙って共有してくれた、と。

その後、彼の母(私の祖母)が弟を妊娠し、一家の主である母の父(私の曾祖父)は、市場の青果仲卸の仕事を捨て、自分の郷里である兵庫県日置村(現篠山市)に帰農することを決めた。小学校の教師だった彼の父を残し、一家は大八車を引いて鵯越を越えた。彼も今田村から日置村に転校した。1945年の正月に弟が生まれたが病弱で、たぶん再び家族会議が開かれ、彼の父は神戸市から兵庫県への配置換えを願い出ることになった。赴任先は兵庫県で一番山奥にある後川(しつかわ)小学校。師範学校を優秀な成績で出た、洋服の好きな彼の父にとっては、生涯の挫折だったろう。ちょうどその頃、神戸は空襲に曝され、彼の父が教える子どもも学校もなくなってしまった。

こうした事情から、戦争が終わっても、彼はすぐに神戸に戻ることができなかった。神戸に戻ってきたのは5年生のときだった。6年生のとき「灘中」を受験して、面接の教員に、農作業で節くれ立った手指をからかわれたことを、一生の恥辱だと語っていた。幸か不幸か、彼は灘中に合格しなかった。なのに、なぜ彼は息子に灘中を受験させたのか?

このように書いてくると、むしろ亡父にとって、ハイジの中盤のフランクフルトの話が一番胸に迫ったのではないかと思えてくる。

アイデンティティで知られるE.H.エリクソンのいう「サイコ・ヒストリー」。それはルターやガンジーといった偉人たちだけではなく、亡父のような無名の人びとの心の傷を知るための方法ではなかったか。

 

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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