摩阿陀会の片隅で:折原浩先生の新著書評会

週末の午後は折原浩先生の新著『東大闘争総括』(2019,未來社)の書評会に参加した。前にも書いたとおり、私は折原サークルの隅っこの方にいさせていただいている。会場には、お歳を召されたが、大学1年生の時大教室で教わった時と変わらない先生がおられる。先生と人間的にながく関わってきた折原サークルの人々がそれぞれの関わりを話していく。まるで内田百閒の『摩阿陀会』のようだ。学生運動の古参兵が多いけれど、皆明るく快活な先生の人柄に惹かれて集まったので、同じように快活で明るい。ただし、そうでない私の偏見かもしれないが、少しだけあの時代の狂熱のようなものが漂う瞬間もあった。先生にもそれに呼応する部分があったのだな、と改めて思う。

若い方のために説明すると、折原浩先生は1968年以降のいわゆる東大闘争の時に、教養学部の若い教官として、一貫して大学当局批判、運動家学生擁護の立場に立たれ、当時は「造反教官」として有名だった方である。大学に嫌気がさしてやめる教員もいたが、先生は残り、大学の外に開かれた公開自主講座を学生ととにも運営してきた。一方で先生はマックス・ウェーバー(ヴェーバーと書くかどうか、笑い話が披露されていた。先生は大塚久雄がヴェーバーと書くのが嫌でウェーバーと書かれていたが、学生たちに非難されて途中から直したというのである)の学説研究者として世界最高峰であり、色々批判点がないわけではないけれども、間違いなく日本社会学の至宝である。

懇親会はいつも通り失礼して帰路についたのだが、急にうつ病の発作がはじまった。冷や汗がどっと出て、周囲の世界が自分に襲いかかってくるように感じられる。ちょうど持ち合わせたフォーレの「子守歌」のCDで誤魔化しながら、何とか家まで帰り着いた。今日は静養である。

落ち着いてから、何が引き金だったのだろう、と考える。思い当たるのは会の後半で、山本義隆氏(これも若い方のために解説すると、当時の東大の学生運動のカリスマ院生)が登壇し、当時の医学部と文学部の教授会が(政府の手前、わざと)誤って下した学生処分を謝罪・撤回しなかったことが運動を支える怒りの源だった、と話したことだ。山本氏は「責任を取らない」という言葉を使ったと思う。他の参加者が「久しぶりに山本節を聞いた」と言っていたとおり、それは力のあるスピーチだった。しかし、他の参加者はそうではないだろうが、私は学生処分の当事者として、責任を取ることを考えたことがある。山本氏のスピーチがきっかけで、そのときの絶望感を思い出したのだ。

10年ほど前、私は学部の学生問題の責任者として、学生が集団で図書館の集会室などで犯罪行為を行ったことの処分を担当していた。学生たちの大部分は未成年であり、警察は起訴猶予だった彼らの名前を大学に伝えなかった。当然彼らは自分たちは無実だと訴えたが、大学は告白した学生からメンバーを割り出し、その処分を各学部に委ねたのである。世間は大学に厳しく、本人たちが認めないから処分しないとか、ある学部は処分するが他の学部は処分しない、などということは許されない状況だった。また私たちの学部は理事を出しており、その理事は前面に立って事態の収拾に取り組んでいたから、その理事の顔に泥を塗ることも許されなかった。一方でたしかな証拠を押さえないままに処分を行うことも、学生たちの将来を考えると許されない。学生の面談と検討会議を繰り返し、眠れない日が続いた。私は何度も面談テープを聞き返して(もちろん録音の了解は得た)、彼らの虚偽を確信し、そのことを教授会で立証できるよう説明を工夫した。結局(あくまで私の主観だが)担当者の私が判断の責任を負うかたちで(「結局、君は処分すべきと思うんだね、と同僚から念押しされた」)処分を決定した。もちろん教授会も承認したのである。

処分を執行すると、当然学生たちとその保護者たちは異議申し立てを行った。保護者の一部は大学に押しかけ、他の教員もいるところで、私に向かって「あなたが私の息子の未来をダメにした」と絶叫した。私を支えてくれると期待した再審査委員会は処分の撤回を結論し、教授会は動揺、紛糾した。私は若かったので、気持ちの上ではどうなっても乗り切れるとは思ったが、処分撤回となったら責任を取って辞職だな、と観念した。辞職すればもう二度と学生を教えることはできないだろう。昔のアホな同僚が言ったように「田舎の小さな町で喫茶店でも始める」かな。

結局、教授会は処分保持でまとまり、私は辞職することはなかった。認めていなかった学生の一部は認めて処分を受け、認めなかった学生は退学していった。その後その学生たちと会ったことはない。学生の処分は教育のためというのが建前だが、何の教育にもならなかったと思う。私に残ったのは同僚と学生に対する絶望感だけだった。

山本氏の力のある声が、私の負の記憶を呼び覚ましたにちがいない。私は林健太郎や堀込庸三のような大先生ではないが、責任についてはいつも考えていた。でもひとりで考えていても無意味だ。責任を取ってやめても犬死である。では、犬死しない生き方を今私は見出せているか、否、見出せていない。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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2 Responses to 摩阿陀会の片隅で:折原浩先生の新著書評会

  1. 折原浩 のコメント:

    貴兄が、職場の学生処分に責任を感じて、苦労され、長らく悩んでおられることは、多分ブログで拝見していました。7月13日の会に出てくださり、Depressionを触発してしまったようで、責任を感じています。「特別権力関係としての教育的処分」という理念と発想に無理があるので、学生の非行については、いっそ近代市民法による公の裁判に委ねるか、学内にキャンパス・コートを設けるとすれば、たとえば再審を可能にするとか、公の裁判に準ずる人権保障のもとで、議論を尽くすほかはない、と思います。そこのところの不備を、当事者が引き受けざるをえなくなっている現状が問題ではないでしょうか。
    9月16日の比較歴史社会学研究会では、貴兄にお目にかかれて、うれしかったです。またいつか、よろしかったらお出かけください。

  2. 中筋 直哉 のコメント:

    先生、コメントありがとうございます。短い間に2度もお目にかかり、たくさんお話をうかがえたので、心よりうれしく存じました。ご指摘の通り、教育にできること、できないこと、してはいけないことの区別を、私たちはていねいに考えてこなかったのだと思います。先生が闘われたことも含め、考えるチャンスはいくらでもあったのに。ご高著をそうした意味でも味読再読したく思います。こちらこそ、遠からずまたお目にかかりたく、念願しております。ますますのご健勝を祈り上げます。

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