盆踊りの標準理論?:8月14日朝日朝刊投書欄から

お盆である。14日朝日新聞朝刊の見ものは何といっても「首相動静」だ。地元の支持者、関係者のうち亡くなった人への分刻みの弔問。明治大正の昔から代議士の夏休みは地元回りだが(『原敬日記』)、私自身は、軽井沢の別荘のふとんで、深夜赤鉛筆をなめなめ官僚の文書を読んでいた田中角栄を思い出す。

さて今日の本題は投書欄の特集「どう思いますか」で、今回は「盆踊りは必要だと思いますか」に付けられた専門家のコメント。れきはく(国立歴史民俗博物館)の民俗学教授というからには、その道の第一人者なのだろう。曰く「盆踊りは、もともと、先祖の御霊と共にあの世からやってくる無縁の亡者や悪霊を追い払う意味から始まったものです」。ええっ、そんな乱暴な話が、今どきの民俗学の標準理論なの!?

無縁の亡者を追い払うというのがおだやかではない。多くの地方で仏壇の前や庭に飾られてきた「精霊棚」や、寺で執り行われてきた「施餓鬼」は、無縁の亡者を迎え入れ、慰めるためのものだったのではないか。あの靖国神社が、英霊ではない「みたま」をまつるのも同じ意味である。そもそも無縁の亡者とは、横死や客死したひと、そうでなくても跡継ぎの子どもがいなくて死後を祀られないひとをいうのであって(だから誰でもそうなり得るし、現代はどんどん増えている。男の子のいない私もいずれそうなる)、祀らなければさびしくなって悪さをするかもしれないが、悪霊ではないはずだ。イエやムラが縁によって成り立つ以上、有縁が無縁に優越するのは当然だ。しかし無縁を追い払っているだけでは、有縁の社会システムは貧困化し、崩壊する。これはE.デュルケム以来の機能主義社会理論のイロハである。

悪霊だって、平安の朝廷はいざしらず、イエやムラの庶民たちは、火を焚き(大文字)、灯籠を灯して(ねぶた)、ていねいに「送り出し」(虫送り)たり、「流し」(眠り流し)たりしてきたはずだ。それが首相のいう「美しい国」の醇風美俗ではなかったか。

さらに問題なのは、このエラい民俗学の先生は女性らしいが、女性こそは有縁の社会の周縁に置かれ、つねに無縁の恐怖にさらされる存在だったことだ。先日も、夫が死んだ途端に一族から実家に帰れと言われた老婦人のことが記事になっていた(今どき!)。「追い払う」という言葉には、この点への深い思いがない。

ここからは宣伝です。この問題の解説は、何といってもうちの連れ合いの本です。『死の文化の比較社会学』(2006,梓出版社)。ダンナの本同様、日本の社会学に蚊の刺すほどのインパクトも与えなかったが、いい本ですよ。お勧めします。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 見聞録 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください