ファンタジーをリアル化しない:劇団四季『パリのアメリカ人』を見る

宮川一夫カメラマンについてのNHKの番組で、M.スコセッシ監督が「私が『雨月物語』(溝口健二監督)にはじめて魅せられたのは、たびたびコマーシャルの入るテレビ放送だった」と語っていて、膝を打った。劇場や映画館のS席ではなく、たまたまブラウン管テレビでズタボロの画像で見ただけでも、「アウラ(芸術の感動)」を感じることができる。だから、ベンヤミンとかアドルノとか、時代遅れで、反動的だと思うんだよね~。

さて今日のお題は、先日家族で観劇した劇団四季の『パリのアメリカ人』名古屋公演。演劇に造詣の深い友人が「クライマックスのアプローチが違う」と冷静に書いていたが、私も、子どもの頃アメリカ映画好きの父とテレビで見た、映画版のクライマックスとの違いが気になった。ずっと幼い頃全篇を見た記憶は薄れていて、中学生の頃『ザッツ・エンターテイメント』で見た記憶が頼りなのだが、「踊る沖仲士」(友人の卓抜な評言)ジーン・ケリーの踊るシーンは、今回見たのとはまったく違っていた。映画の方はスポットライトに残る赤いバラ一輪。私はその違いに、今回見た舞台の現代性が集約されているように思えた。いい悪いは別として。

『パリのアメリカ人』にしろ『ローマの休日』にしろ『旅情』(私自身はこれが一番好き)にしろ、昔の、アメリカ人のヨーロッパ観光もの映画の魅力はファンタジー性にあるので、歴史上の占領の暴力やドルの力をリアルに、クリティカルに描き直してもあまり意味がないように思う。当時の感覚に戻っても、ヨーロッパから見れば片田舎のアメリカの庶民からすれば(『踊る大紐育』の水兵たちのように)、見たいものは破壊された(自壊したというべきか・・・)ヨーロッパではなく、(印象派の)絵に描いたようなヨーロッパでなければならなかったはずだ。だから『パリのアメリカ人』も、台本はハッピーエンド版『ラ・ボエーム』くらいで十分だったのではないか。今回の舞台は、劇団四季だからか、浅利慶太追悼だからか、占領下という演出にこだわり過ぎていた。

まあ、でもよかったです。途中で僕の大好きな「セカンド・プレリュード(ラプソディではなく) 」がかかって。昔バーンスタインのレコードで感動して、神戸のヤマハで英語の楽譜を買って練習したけど、もちろん弾けるようにはなりませんでした。

 

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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1 Response to ファンタジーをリアル化しない:劇団四季『パリのアメリカ人』を見る

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    「パリのアメリカ人」がアリなら、「トウキョーのアメリカ人」もアリかもと思って、色々想像していたら、昔岡本太郎のエッセーで読んだ話を思い出した。戦後来日したイサム・ノグチが(あの)山口淑子と一緒になって、北大路魯山人のところで修行していたという話。ちなみに岡本太郎は幼い頃から岡本家に出入りしていた北大路と親しかったらしい。

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