すべてのものは主の御手に:歌手ジェシー・ノーマンの訃報

昔「社会学原論」の授業で吉田民人先生が、「声楽をやっているうちの娘が、ジェシー・ノーマンと握手した手を洗おうとしない」とおっしゃった。初中終舟を漕いでいた私も、その時だけは目が覚めて、「ふん」という顔をした。なぜなら、その頃私はジェシー・ノーマンの声に惚れ込んでいて、はじめて買ったCDプレーヤーで『黒人霊歌集』を何度も何度も聞いてたからだ。できることなら、あの声と結婚したい、と真剣に思った(連れ合いは全然別種の声です。念のため)。

ウェブ動画の時代になって、たまたまどこかの歌劇場で『ワルキューレ』のジークリンデを歌うのを見た。夫のDVの上に兄妹相姦で結局みんな死んでしまう陰惨な役なのに、そしてあの豊満な容姿なのに、そこには確かに純粋で、喜びに満ちた少女がいた。きっとあの少女は、彼女が生涯心の中に抱き続けてきた「私そのもの」にちがいない。

今私は、S.イェルザレムと組んだマーラー『大地の歌』を聞いている。買うのにかなり逡巡した。きっと合わないと思ったのだ。たしかに限りなくリッチな彼女の声はストーカー気味の初老の男の寂寞には似合わない。S.カツァリスがピアノを弾いたB.ファスベンダーのリーンな声が、この曲には似合う。

やはり、私にとってのジェシー・ノーマンは、黒人霊歌「すべてのものは主の御手に」だ。『黒人霊歌集』には入っていないが、彼女のリサイタルのアンコールの定番で、ラジオ中継で何度も聞いた。ライブCDにも収録されている。

歌手ジェシー・ノーマンの訃報。享年74。すべてのものは主の御手に。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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