謝らない階級と謝らされる階級:授業風景から

こちらは入門科目「グローバル市民社会論B」、先住民の権利がらみで、北海道大学が不正に入手したアイヌ民族遺骨の返還をめぐって民族団体と争訟になり、和解はしたが、返還の際代表の副学長が一言も謝罪しなかった話をした。するとひとりの学生さんが「それテレビで見ました。教授たちは謝らなかったけれど、職員の人がひとりで謝っていましたよね」と。私「いやいや、謝っていた人も教授だよ」、学生さんはどこか納得しない風だった。

研究室への帰り道、ハッとした。たしかに副学長は恰幅もよく、いい背広を着ている一方、謝っていた教授(たぶんアイヌ研究者)は痩せて、地味な服装だった。私から見ればどう見たって前者が大学のお役人で後者が教授に見えるのだが、学生さんからそう見えないとすれば、そこにはいくつかの深刻な問題が潜んでいるように思えたのである。

まず、リッチで謝らない人が教授で、プアで謝る人が職員という見え方の問題。こうまとめれば学生さんの見方も頷ける。勝手な休講、勝手な講義、勝手な試験、教授たちのお守り、尻ぬぐいをしているのは職員だ。教授たちは素敵な外車でご出勤、職員は学生と一緒の満員のバスで。だから、日頃わがままな教授たちに振り回されている学生さんたちが、謝る人を同情的に職員と見なすのは無理もない。

もう一つは、きっとあの傲慢な副学長も、若い頃はプアで卑屈だったのが、いつの間にやらリッチで傲慢になり、実はもっとリッチで傲慢な(国立大学の)幹部職員たちの親分になってしまったのだということ。私には、副学長の後ろで、絶対謝るなよ、と睨んでいる幹部職員たちの方がよほど怖い。

そして、もしそうならば、私たち教員が、もっと近づきたいと思う学生さんたちからだんだん遠ざかってしまうのも無理はないということ。それはまるで、持てる者なのに謝らずにすむ階級と、持たざる者なのに謝らされる階級の、エンゲルスがみた通りの階級闘争だ。

講義の方は謝罪を要求した川村兼一エカシからその父の川村カ子トエカシの話に持って行くつもりだったのだが、学生さんの「気づき」が思いがけない示唆を与えてくれた。

ひとつ心の救いなのは、昔大学祭の警備を担当したとき、酔っ払った学生に職員と間違えられたことだ。「職員は引っ込め」と言われて憤慨したが、「教員には何を言っても無駄」と心の底で思われるより、ずっとマシだ。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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