長い墓標の列のはて:最近のできごとに触発されて

演劇青年で、早稲田で学んで演出家になりたかった亡父は(成功していたら別役実や山崎正和のようになっていただろうか)、神戸大学演劇部の卒業公演で福田善之作「長い墓標の列」を演出した。子どもの頃アルバムに挟んであったパンフレットを見つけて、その題の恐ろしさに身震いした。しかし読んでみると中身は違っていて、いわゆる「平賀粛学」に題材をとり、東大を辞職した河合栄治郎と門下生たちの葛藤を描いた作品だった。父によれば一番弟子なのに師匠を裏切って復職する大河内一男との葛藤が見せ場らしい。しかし子供の私には河合栄治郎も大河内一男もどんな人か分からなかった。ただ、昔の東大の先生というのは演劇になるほどドラマチックな人々だったんだなと感心したことを覚えている。

この仕事に就いてからしばたく経って、隅谷三喜男の回顧録だったか、弟子たちとの座談会だったかを目にしたことがあった。それ以外のところでは実に闊達で率直な隅谷なのに、師匠の大河内を語るところだけは逡巡し、曖昧にぼやかしていた。というか混乱していた。それまで勝手に闊達で率直な隅谷の学問を尊敬していた私は、かなり鼻白んだ。

今私が書きたいのは、河合や大河内や隅谷らの個人のことではない。かれらを葛藤させ、裏切らせ、逡巡させ、混乱させるものについてである。先に自分の業界について小さな研究会で報告したけれども、その点をあまり掘り下げられず、聴衆の共感も得られなかった。

最近のできごとで、私のSNSの画面は一色に塗りつぶされてるようだ。その画面を眺めながら、私はなぜか「長い墓標の列」という言葉を思い出している。「長い墓標の列」、実演で観ることは恐らく不可能だろうから、図書館で借りてきて読むことにしよう。

 

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 私の仕事, 私の心情と論理 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください