亡父の死の風景:新年早々すみません

ツイッターでつながっている永太郎(ながたろう)さんという地理学の方が元日の夕暮れの美しい写真をアップしていて、ふと見るとそれはまごうことなき亡き父の死の風景だった。被写体は三菱重工神戸工場本館だが、その向かいの建物は三菱神戸病院、父が亡くなった病院である。

父は神戸大学経営学部を出た後、公共企業論の指導教授推薦の大阪ガスを蹴って三菱電機に就職した。東京に出たかったからだが赴任地は自宅から1キロも離れていない神戸製作所で、大阪に異動するまで10年ほどそこで働いた。最初の職場は資材部で、取引先の電線会社の電話嬢だったのが母である。幼い私はひとりで出歩けるようになると、工場の正門まで定時で退社する父を迎えに行った。サイレンが鳴ってたくさんの工員さんが出てくるなかに父を探すのは幸福な時間だった。数年後会社の運動会で父が年長の工員に横柄に接するのを見るまでは。同じ頃父は原発建設に関わるようになり、関電の接待接待でどんどん帰りが遅くなった。それに私たち家族は祖父母の家を出ていたので、工場に迎えに行くこともなくなっていたのである。

癌を病み、一度心肺停止になった父は、その後の治療先を行きつけだった三菱神戸病院に定めた。私は経歴上医者の友人が少なくないので最適な病院を紹介してもらうと母に持ちかけたが、母は「私も聞いてみたけど、あそこがええ、って聞かへんねん」とあきらめ顔だった。その時はよく分からなかったが、自分の郷里に近い最初の職場の付属病院を、父は死に場所に決めたのだろう。昭和10年竣工の、父とほぼ同い年の古ぼけた病院に。

再度父が危篤になったと知らされ、名古屋から車を飛ばしたが、新名神の土山のあたりで父は死んでしまった。狭い病室で対面した後、真夜中の人気のない本館と病院に挟まれた通りに出て、私は呆然としていた。ツイッターの写真はその時の風景を思い出させてくれたのである。

昨年が7回忌だったのにずっと忘れていたが、また父のことを色々考えたくなってきた。

http://kindaikenchiku.seesaa.net/article/425593733.html

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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