生ききった者にのみ安らかな死がある2:整体指導者の死を悼む

私たち家族が長年お世話になった国立の整体指導者が亡くなられた。享年88。この状況下では見舞いはおろか葬儀にも参列できなかった。ただ遠くから悼む他はない。

25年前、新婚の私たちは西国立に貸家を借りて住み始めた。それまで日暮里の指導者に付いていた連れ合いは、遠すぎるので近くで紹介してもらったのがこの指導者だった。連れ合いはいそいそと通い始めたが,帰ってくる度身体も機嫌も悪化するように思われ(これは野口整体の入り口である)、今日整体に行くと聞くと私は緊張した。こんなことで新婚生活をうまくやっていけるのだろうか。悩んだ挙げ句、毒食らわば皿までとばかり自分も通ってみることにした。それは指導者の思うつぼで、きっと一緒に来るようになると思っておられたそうである。そこで私に生じた変化は先に書いた。子どもを持ちたくなったのである。

98年から5年間の豊橋時代にほとんど接触はなかったが、名古屋に移って1年くらい経った頃から夏と春の年2回、家族を乗せて中央道を走って会いに行くようになった。それぞれの実家と疎遠になっていた私たち家族にとって、そこはもう1つの実家のようだった。指導者の方もとくに連れ合いを実の娘のようにかわいがってくださった。

私が法政大学の教員であることに指導者は特別な思いを抱かれていた。というのは、彼女のお父さんは戦前の予科の名物教授で、応援団の創設者だったからである。しかしお父さんは教え子たちを戦争で死なせた罪の意識から深酒になり、戦後すぐに亡くなった。彼女は高等女学校を出た後映画女優になって(北原三枝や芦川いづみと同期か?)家計を支えた。映画が斜陽になっていわゆる「ドサ回り」も経験した後(田岡一雄に興行を仕切ってもらったこともあったそうだ)、一念発起野口晴哉に入門した。内弟子として住み込みで一から学んだのである。そんな彼女はきっと私に亡きお父さんを重ね合わせておられたにちがいない。だから私がうつ病になったとき、いつも自信たっぷりの彼女は非常に混乱した。これもお父さんの最期を重ね合わせておられたにちがいない。

悲しいと言えば悲しいが、その死には何か爽やかさがある。野口晴哉のいう通り、彼女には「生ききった者にのみ安らかな死がある」からにちがいない。合掌。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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