私の「二次的定住」

友人が1960年代の大阪の「スラム」を記録した映画をFBにアップしているのを見て、ふと思い出されたことがある。

私の生まれ育った町は神戸の造船所や紡績工場の間を埋める「細民街」だが、祖母は商店街のなかに一応店を張り、戸建ての家も持っていたし、婿養子の祖父は小学校の校長だったから、周りからは一目置かれていたのだと思う。その祖母はときどき自分が「貧民」ではないということに固執した。連れ合いを最初に会わせたときもそうした発言をいきなりして、地方育ちの連れ合いを驚かせた。

妹や弟は知らないだろうが、私には戸建てを建てる前に祖母が住んでいた長屋に連れて行かれた記憶がある。二階建てだったから商売用の貸家だったのだろう。その長屋も新家も空襲で焼けなかった(祖父の話だと、B29はケチで神経質だから海岸を見てから焼夷弾を落としはじめるので海岸沿いは焼けなかった)。近所の人との付き合いも続いていた(町丁は別だが新しい家とは100メートルも離れていない)、だいぶ後になってから、祖母はその頃の暮らしを話してくれた。女たちが集まってマッチ箱貼りの内職をしたこと、病気見舞いに重宝された卵を売るために鶏を飼っていたこと。米騒動までは米屋からまとめ買いした米を小売りして小銭を稼いだが、米騒動で怖くなってやめたこと、などなど。中央市場の青物卸としてまじめに働いた曾祖父は、一人娘の婿取りのために新家を建てた。祖父母の結婚式は新家の二階で行われたのである。

遊びに行くと祖母はいつも私の耳の裏側をチェックした。耳の裏側に垢を溜めているのは貧乏の証だというのである。マメに床屋に行き、身ぎれいにせなあかんよ、と言っていた。

戦争中の曾祖父の郷里の村への疎開以外その町から出たことのなかった祖母が、最後は自分の分身のような新家を捨てて(正確には築70年の新家じたいは地震で壊れて建て替えたのだが)、千葉県松戸市の叔母の家に移って亡くなったのは、結局あの町からずっと出られなかったがほんとうは出たかったということではなかったか、ということがふと思い出されたことの結論である。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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