久しぶりに体調を崩した理由

昨日職場の会議に出た後、久しぶりに心身の調子が悪かった。ずっと吐きそうだった。職場が原因の病気だったので、やっぱりやめておけばよかったと思った。が、そうした自分もできればていねいに見直していきたい。何が悪かったか省みると、会議で交わされた「社会政策」という言葉に思い当たった。私にとってはこの言葉は「愛国心」と同じくらい色を感じる言葉だ。それが善き意味を込めて使われていた(愛国心も同じだが)。それを聞いていて気分が悪くなったのだ。社会と聞いても気分は悪くならない(社会学者だから当たり前か)。政策と聞いても気分は悪くならない。しかし、この2つがつながるとすごく嫌な感じがする。さらにそこに当たり前のように善き意味が込められると、もうどこかへ逃げ出したくなる。今日は「社会調査法」の授業の予習で『高野岩三郎伝』を読んだ。日本における社会政策学の創始者だが、彼の学問にはちっとも嫌な感じがしない(人柄については微妙・・・)。この嫌な感じを突き詰めていくと、自分のスタンスをより簡潔に表現できるようになるに違いない。吐かずにすむようになるに違いない。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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1 Response to 久しぶりに体調を崩した理由

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    もう1つ、吐くほどではないが違和感を覚えたのは、「市民の視点」以外に「企業の視点」や「社会集団の視点」も教えるべきだという指摘だった。もちろんその指摘がまったく誤りだと思ったわけではない。しかし市民を企業や社会集団と横並びに考えることは、私にはできない。たしかに企業や社会集団、あるいは地域社会や政府の視点を分析的に教えることは必要だし、そのための授業科目も実際にある。しかし最初の、そして究極の視点は必ず市民に置くべきだ。でないと、そうした諸社会を分析的・批判的に理解することはできなくなる。分析的・批判的に理解することができなければ、職業訓練校ではない大学の教育の意味はない。逆に、諸社会を批判的に革新できる将来の市民たる学生を知的にエンパワーすることを通して、はじめて大学は諸社会に貢献できる。ちょっと、C.テイラーを批判するJ.ハバーマスみたいになってきた。ハバーマスがそういうように、この場合市民は動的かつ多様な集合態として、それ自体が分析的・批判的に理解されるべき対象である。

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