「知的なカウボーイ」スペンサー・トレイシー

NHKBS(こればっか)でスペンサー・トレイシー主演の映画『招かれざる客』(1967)を観た。娘が黒人のバツイチ医師と結婚することに悩むリベラルな白人の父親の話で、父親役のスペンサー・トレイシーの遺作だそうだ。もともと母親役のキャサリン・ヘップバーンが好きで(何といっても『旅情』!)観たのだが、アカデミー主演女優賞を得たにもかかわらず、この映画のヘップバーンはパッとしない、一方、トレイシーの演技のすごさには終始うならされた。とくに主人公が悩みに悩んだ挙げ句、「私は最低だ」と考えをあらためるところ、カメラが少しだけトレイシーに寄ると同時に彼の目に光が宿る。これこそ映画だと思う。また、トレイシー演じる主人公が、変化する状況をつねに自分の問題として受け止め、それに対して自分で考えて立ち向かっていく(もちろん娯楽映画なので、コメディ的ドタバタもたくさんある)ところが、まさに「知的なカウボーイ」といった感じで、なぜか非常に感動した。R.ベラーは『心の習慣』(1985)でアメリカ人の「セルフ・リライアンス」の神話性を批判しているし、たぶんポストモダン以後の日本の社会学では、それは冷笑されるだけの概念かもしれないが、私はそうした生き方が根底的に重要だと思う。そういう風に生きていきたい。

もう1点社会学的なポイントを挙げるならば、主人公の回心のきっかけが、黒人医師の母親から、「あなたや私の夫は若い頃の(男性的)情熱を失っている」と批判されることだったことである。「若者の情熱が人生においてつねに参照されるべき規準点である」という考えも「セルフ・リライアンス」のパーツの1つだ。その一方で、ハイデガー的意味で来たるべき死(の完遂性)がもう1つの規準点となることも十分にあり得るだろう。もしかするとトレイシーの演技の凄みは、そこから来ていたのかもしれない。

若者たちの結婚に反対することを通して、自分の若い頃の情熱を思い出すという構図は、私が小津安二郎監督の作品で一番好きな『彼岸花』(1958)と似通っている。『彼岸花』では、「桜井の別れ」の歌に象徴される、共同体の大義のための戦死が情熱の中身だった。佐分利信は、トレイシーとは異質だが同じくらいの迫真性をもって演じていたと思う。

 

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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1 Response to 「知的なカウボーイ」スペンサー・トレイシー

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    ただし、トレイシーがもう死に直面していて、その事実上のパートナーであるヘップバーンが看病しながらこの作品に取り組んでいたのならば、ヘップバーンの「不明確な」演技に込められた人間性が分かるような気がするし、トレイシーの「明確な」演技に込められた人間性も分かるような気がする。両方とも、私にはセルフ・リライアンスの賜物のように思える。

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