夏休みの宿題『言葉と孤独』を読み始める

先日のゲルナー続きで、夏休みの宿題に彼の遺作『言葉と孤独』(1998)を読み始めた。ウィトゲンシュタインとマリノフスキーの学問と生涯を「ハプスブルク・ジレンマ」という鍵概念で論じるもので、まだざっと見ただけだが、まず冒頭の、息子のオックスフォード大教授D.ゲルナーの手になる父の伝記が興味深い。第二次大戦中は「チェコ機甲師団」に志願し、プラハで動員解除になったという。また「ハプスブルク・ジレンマ」を論じるところでも、ハプスブルク帝国を「使徒的」といっている点が目にとまった。オスマン帝国と宗教改革という「ライバル」こそが存在理由だったというのだ。「辺境」伯とは修飾語ではなかったのだなと思う。総じて短いエッセーの寄せ集めで、文体も講義ノートのように要点だけ列挙した感じで、ギアーツ流の「厚い記述」ではないところが私には好ましい。どうも「厚い記述」というのはうざったく、胡散臭い。中身についてはまだホンの序の口だが、ウィトゲンシュタインへの評価が非常に厳しいことに驚かされた。まず後期における革新あるいは成熟という神話(日本ではだいたいそういう話になっている)を否定し、前期もその虚弱性(世界の狭さ)を指弾する。とはいうものの、私の貧弱な英語力では、正しく理解できているか心配だ。かつての徳永洵先生のような達意の解説を読みたいと正直思う。ちなみに、最近偶々読んだ日本の文化人類学者が、ウィトゲンシュタインとマリノフスキーという枠組みをこの本を文献指示せずにパクっていた。みっともないとしか言いようがない。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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2 Responses to 夏休みの宿題『言葉と孤独』を読み始める

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    キリスト教の辺境としてのハプスブルク帝国というアイデアは、他の帝国(プロイセン、ロシア、大英、スペイン)との比較の枠組み(陸続きの辺境と大洋を越えた辺境=植民地)としても使えそうだし、辺境の対極としての中心(具体的辺境がない/抽象的辺境を必要とする)としてのフランスやイタリアについても逆行列的に使えそうだ。さらに、ヴァレリー=デリダの「他の岬」のアイデアとも重ね合わせられそうだ。

  2. 中筋 直哉 のコメント:

    冷戦後のチェコといえば、1990年「プラハの春」音楽祭におけるR.クーベリック指揮のスメタナ『わが祖国』演奏会が思い出される。クーベリックの突き抜けた笑顔とハベル大統領の厳しい表情の対照が印象的だった。「市民運動論」の講義でも、市民社会と国民国家の関係の事例の1つとして、この曲と演奏会を紹介している。だが、ゲルナーの「ハプスブルク・ジレンマ」に従えば、むしろ1914年生まれのクーベリックや、1912年生まれのハンガリー人G.ショルティがマーラーの交響曲のスペシャリストであったことの方がより興味深い。それは、マーラーと同じユダヤ系だがアメリカ人の、1918年生まれのL.バーンスタインとはちがうリアリティなのだろう。ゲルナーはたぶん自分の問題として、そうしたことを最後に書きたかったのだろう。

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