年季の入ったアドルノ嫌い

やや長期的な勉強として、『アメリカ兵』を中心にP.ラザースフェルドの仕事を追っている。その前のラジオ調査室の仕事に遡ると、当然ながら部下アドルノに出合うことになる。「ラジオ音楽の社会的批判」(1945)で「博愛的な行政的=管理的調査」と、文無しの亡命者仲間を雇ってくれた、2つ年上の博愛的なボスをこき下ろしている。またいつものアドルノぶりにうんざりしてしまう。高校生の頃G.マーラーの交響曲が好きになり、評論集を買ってわくわくしながら読んだ。なかでも一番期待して読んだのがアドルノだった。しかし非常にがっかりさせられた。子供心に、それが全然対象探究的でなく、自分を誉めたいだけの結論ありきの議論と思えたからだ。それ以来、アドルノを読みたいとは思わない。でも、少し年をとったせいか、それなりに楽しめるところも出てきた。たとえばトスカニーニをむやみに否定するところ。E.サイードはそのパクリだな、とか。中西部のラジオ局に寄せられたファンレターの紋切り型批判のところ、P.ブルデューはそのパクリだな、とか。つまり、アドルノにはある種の学者がパクりたくなるような何かがあるわけで、私の方はそこにまったくピンとこないだけなのだ。この間NHK交響楽団の定期演奏会のテレビ放送で、L.スラトキンがラジオ放送向けのバッハの編曲集を指揮していた。なぜだか非常に感動した。もちろんそれはカザルスのバッハでもなければ、レオンハルトのバッハでもない。グロテスクなまでに変形されたゾンビ・バッハといえるかもしれない。でも、それも音楽なのだ。アドルノにいわせれば、私も「地下鉄でブラームスの主題を口笛で吹く少年」なのだろう(ただし私はブラームスは嫌い)。なお、アドルノとラザースフェルドの関係については、先輩の奥村隆先生が「亡命者の社会学」という論文で公平に論じている。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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2 Responses to 年季の入ったアドルノ嫌い

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    トスカニーニといえば、バルトークが『管弦楽のための協奏曲』を書いているときに、偶々ラジオからトスカニーニの指揮するショスタコーヴィチの交響曲第7番が流れてきて、腹を立てて曲の中に織り込んだという有名な挿話がある。バルトークがトスカニーニに腹を立てたのか、ショスタコーヴィチに腹を立てたのか、惨めな自分に腹を立てたのか、よく分からないが、でも、バルトークがラジオから流れてくる「音楽」を「娯楽」として聞かなかったことは確かだ。バルトークでなくても、ラジオにはそうした奇蹟的経験をもたらす可能性がある。黒澤明の映画『天国と地獄』のクライマックス・シーンの「オー・ソレ・ミオ」だってそうだ。やはりアドルノはダメだなと思う。

  2. 中筋 直哉 のコメント:

    小田島雄志『シェークスピアの人間学』を読むと、小田島が丸谷才一から「だから君にはブラームスが分からないんだ」と批判されるところがある。「ブラームスが分かる」というのが、ある種の知識人の判別基準だったところが面白い。私は一生「不可」だろう。

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