飛ぶ鳥を落としていた頃の話

たった10ヶ月間しか勤めなかった「東京大学助手(文学部)」(当時の正式な記名法)の思い出を。94年4月から日本学術振興会特別研究員に採用され、当分喰っていけると思ったら、当時2つあった助手のポストが1つ空くことになったので応募することにした。公式には任期付きではなく、採用されたらより安定した生活を手に入れられるから、付き合っていた今の連れ合いと結婚できると思ったからだ。ちなみに私たちは、どちらかが就職できたら結婚しよう、両方就職できたら子どもにチャレンジしようと約束していた。デリカシーのない亡き父は、結婚後なかなか孫ができないので、「お前たちはセックスレス夫婦か」などと聞いてきた。運のよいことに採用され、5月16日からという変則的な勤務が始まった。

勤務が始まってすぐに、山梨大学教育学部(旧)の講師に招聘したいという話が指導教官の似田貝香門先生を通して持ち込まれた。先方の塩入力先生は自分の後任にぜひ東大の助手を採用したいという、不思議な野心?をお持ちだったので、私がちょうどぴったりだったのだ。似田貝先生は人事の実力者で、私の前に同級の数土直紀氏を信州大に、同じく同級の浅野智彦氏を東京学芸大に送り込んでいて、私が3人目、いや3番目だった。そんなわけでたった10ヶ月で私は助手を退任し、甲府に赴任することになったのだ(ただし東京から通っていた)。

山梨に赴任することが明らかになったとき、あまり祝ってもらえなかった。当時の研究室主任の庄司興吉先生は「君の名前は東大のどこにも残らないぞ」と皮肉を言われた。大学院の先輩の1人は、送別会の席で「勤めたいと思わない大学に就職するなんて俺はしない」と蔑んだ。例の北川隆吉先生など、どこから聞かれたのか、すぐに電話をかけてこられ、「伝統ある東大の助手でそんな格下の大学に就職するのはお前がはじめてだ」と叱責された。でも、私は結婚して新しい生活を始められるうれしさで、たいして気にならなかった(まったくといえば嘘になる。こうやって覚えているのだから)。

実は私の退任は、出す側にもメリットがあった。先に書いたように文学部は助手を半減することにしていたので、私の後を埋めないことで社会学研究室はノルマをこなしたことになったのだ。庄司先生の皮肉は、だから皮肉以上のものではなかったのだ。

私たちの新生活は、直前の阪神淡路大震災のせいで微妙に歯車が歪んだかたちで始まった。被災した母と私たちはずっと話が噛み合わず、だんだん実家との間の溝が広がった。一方、震災研究を志された似田貝先生の、研究参加の要請を私は受け入れられず、「破門」されてしまった。さらに山梨大学では赴任後すぐに「改革」がはじまり、私は3年後に教育学部から工学部にリストラされた。

そんな状況でも、「飛ぶ鳥を落とす勢い」に見えたのは、やはり若かったからだろう。いつか雲が晴れ、明るい高原に出ることができると信じていたからだろう。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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