個人として生きることの「革命」

例によってビデオに録った映画を子どもと見ている。今回見たのは、C.リーブ主演の『スーパーマン』(1978)だ。子どもの頃テレビ放映で見て以来だ。最初見たときは、スーパーマンよりG.ハックマン演じる悪党レックス=ルーサーの方が好ましく思えた一方(ヘンな子ども・・・)、時間を巻き戻して恋人を救うクライマックスが子どもだましに見えて納得できなかった。あらためて見直すと、最初の2つの印象がつながって非常に面白かった。どうつながったのかというと、時間を巻き戻すのはは社会の正義のためでなく自分の愛のためであり、それを禁じるのは、今はいない(無責任にも死んでしまった)父親の、「秩序に従え」という声あるいは幻影なのである(ダジャレ気味だが、まさに「スーパーエゴ」)。そして社会にたった一人で反逆するという一点で、スーパーマンはルーサーと同じ地平に立っているのである。むしろルーサーは社会の奴隷だったスーパーマンを挑発したとさえいえるかもしれない。ただしルーサーは、それもまた社会である金に囚われてしまったので世界を変えられず(アルベリヒ!)、スーパーマンにもなれなかった。結局愛だけが、人を社会から自由な存在、すなわちスーパーマンにするのだ。

ここまで考えてきて、2つのことに思い当たる。1つは、昔書いた「社会運動の戦後的位相」(矢澤修次郎編,2005,『講座社会学15 社会運動』東大出版会、所収)という論文のことだ。この論文では、戦後の意味を「自由の条件としての平等を制度的に創出すること」に絞って論じたが、「自由の本質はいつでも社会の外に出られることにあり、それを可能にするのは愛だけである」ということまでは思い至らなかった。そこに絞っていれば、まったく新しい、飛躍的に自由な戦後社会運動史を描けたに違いない。ちょっと涙が出るほど悔しい。

もう1つは、この夏に聞いた1つの声である。その声は「私が個人として、今まで考えて来たこと」を話されていた。テレビでその声をうかがったとき、私は電撃を受けた気がした。その声の主は、社会の象徴であることを社会によって強いられた人である。そしてその人は、かつて愛によってそれに反逆した人である。私はその声を「革命」と呼んでもよいと思う。それは「革命」だから、きっと体制に弾圧されるだろう。いやすでに弾圧は始まっている。その一方で「革命」はきっと民衆に支持されるだろう。社会に抑圧され、愛を奪われた多くの人の心に、その声はきっと響いているだろう。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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2 Responses to 個人として生きることの「革命」

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    この声の主に、私はかつて一度電撃を受けたことがある。そのことは『東京論の断層』という論文に記した。しかし、そのとき、私は彼の「革命」に気づかなかった。

    http://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/515/

  2. 中筋 直哉 のコメント:

    弾圧者とは、たとえば、社会運動の擁護者のような顔をしながら、新聞時評で明治天皇の子孫を自称する男の言動を特権的に取り上げた上(だからどうだというのだ。それなら俺だって大ムカデを退治した田原藤太秀郷の子孫だぞ)、それに同意してしまうような、アンポンタンな評論家をいう。

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